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積み木あそび

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19世紀ドイツの教育者、F.フレーベルによって考案された「積み木」。
ご存知のように、幼児期に積み重ねたり、並べたり、崩したりして遊ぶ玩具だが、ハイテク時代の昨今はあまり人気がないらしい。

子供の頃、「積み木」で遊ぶ喜びや達成感は格別なものだったし、大人になってからの我が子との「作品」群は克明に思い出すから不思議だ。
やはり、ヴァーチャル・ゲームと違い、手先(=からだ)を使った遊びは脳に強烈な印象を与えるのだろうか?
我が子の計画性や忍耐力、ひょっとしたら性格の多くは「積み木」によって形成されたのかもしれないとさえ思う(もう少し一生懸命に遊ぶべきだったか?失礼!)。

しかし、積み木あそびにはつくる楽しみとは別に「崩す」ときの悲しさ寂しさもある。
丹精こめて作り上げた「作品」でも夕飯までには壊さなければならない。
母親にお願いしたところで却下されるのは目に見えているから(それでも一応試みるのだが)、子供たちは泣き出したい気持ちを抑えて自分の手で崩したものだ。
今振り返れば、子供の頃から諸行無常を教えられていたようなものだ。
大人になって始めて分かる「形あるものは姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬たりとも同一性を保持することはできない」ということ。
仮想現実流行りの昨今でも「積み木あそび」の教えは深いと思います。

コンプライアンス≠法令遵守

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漠然とだが、「コンプライアンス=法令遵守」という言葉を聴くたびに、何か違和感をもっていた。だいたい、法も含めて人のつくったものに絶対はないと思っているからだ。
「実態に則さない法に順法もないもんだ」と人に話すと、「赤信号で皆が止まらなくなったら大変じゃぁないの?」とたしなめてくれる親切な(?)人までいて、勿論そういう次元の話もあるだろうが、マスコミや、時々金融機関の社員から出てくる「コンプライアンス=法令遵守」という言葉には、とにかく我慢できなかった。
刑法はともかく、三菱自動車のリコール問題、耐震偽装事件、ライブドア事件、日興コーディアルの粉飾事件、不二家問題、、、など、相次ぐ経済事件は多くの企業責任者の謝罪会見のときのように「法令遵守」さえ怠らなかったら、本当に防ぐことができたのだろうか?

元東京地検特捜部検事の郷原信郎氏は「『法令遵守』が日本を滅ぼす」(新潮新書)という過激な題名の本で、これらを明快に答えてくれている。
たとえば、氏は「法律と実態社会との乖離」に注目して、順法精神だけでは齟齬が生じるのは当然であると喝破している。(「法と実態との乖離」の事実は、現政権の中心閣僚、松岡農水相が答弁する悲しい姿を見ても明らかだ。)
そもそも、郷原氏は一般的に言われている「コンプライアンス=法令遵守」は誤りで、コンプライアンスとは「組織が社会的要請に適応すること(=環境に合うように行動のし方や考え方を変えること)」と定義しているから、実態に即していない法に従っていたところで社会的要請(=「常識」だと思う)に答えられるわけはないとしている。(詳しくは同書をお読みいただきたい。)

日本の近代法が市民社会とは別次元のところでいきなり輸入され発達した、という独自の事情があるのだから、輸入元の欧米諸国のような熟成された法を持つことができないのは致し方ないことではある。
が、この「法と実際との乖離」は現在の政治家が市民社会を把握することを放棄していることを意味し、激変する「社会」に立法、行政が追いつけていない実態を浮き彫りにしている。

立法、行政が現在の市民社会に根ざしていないのならば、頼るところは「司法」のみとなるが、最近の経済事件裁判のニュースを見ていると、まるで、司法が世論(?)によって左右されているようで情けない。
堀江氏は実刑判決を受けたし、裁判ではないが、東京証券取引所は日興の上場維持を発表した。この点を見ても証券関連法が充分整備されていないことは窺える。
そして、法が未整備なのに裁かれる(=冤罪になるかもしれない)、という恐ろしい事実が現実のものとなって堂々と報じられている。
堀江氏の生き方には多々疑問を感じるが、実刑判決のニュースを聞いて「海外ではもっと重いゾ」などと軽々には話せる気分にはとてもなれない。
三権分立の原則は破られ、先日の人権問題と併せて考えると、何か全体主義的な様相を呈してきているようで恐い。

知足

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この程度の雪で言うのもなんだが、自然は人事の遠く及ぶところではない。
実家近くのスタンドでも気の早い人はとっくにタイヤ交換をしてしまっているらしい。
お気の毒だが、今回の雪にはさぞ驚かされたことだろう。
スタンドの人は「まだ、3月ですから」としたり顔で説明していた。
私は、といえば日ごろのズボラな性格が功を奏して(?)幸い事なきを得たのだが、朝の道路はいつもの所要時間が倍もかかるほどに混んでいた。
やはり、こんな日は家に居るのが一番なのかもしれない。

週末、親しい友人が旅の途中で郡山に立寄った。
2月に所望された白河だるまを送った後、「目入れ」の儀式の話をすると、「あ、いかん!(自分は)もう充分足りているのを忘れていた」と言い出した。つまり、「いま願はない」ということらしいのだが、とりあえず「目」は入れたそうだ。
まったく面白い人だ。
余計なお世話だが、一年後どこで焚き上げるのか?興味のあるところでもある。

その彼と、彼の敬愛する玄侑宗久師のお寺「福聚寺」を訪ねた。
残念ながら、師に会うことは叶わなかったが、おかげで三春観光ができた。
三春は福島県央に位置し、梅・桃・桜が春に一斉に咲くことから名づけられたらしいが、実に洒落た名前だと感心する。鎌倉時代にここを支配していた田村氏のセンスの良さが窺える。

この町は樹齢千年といわれる「三春滝桜」が全国的に有名だ。
年間の観光客数は定かでないが、この地区の他のどの観光地よりも集客力があるそうだ。
どんなにお金をかけた観光地より、たった一本の木が人を呼ぶとは皮肉な話だ。
その桜も観光客が押しかけたため、根っこを踏まれ、そうとう弱っているらしい。数年前から足元に柵が設けられた。
ついでに(?)道路も拡張整備され、観光バスの駐車場も増えている、開花しているたった一週間のために!
おかげで、小さい時、三春の親戚の帰りにスバル360で寄った頃の、感動した「滝桜」の面影はない。ここも人の手が過剰に入り、壊されていく運命なのかもしれない。

「桜は開花のころに行くもんじゃないよ」とその友人は言う。
確かに身近なところでも桜のきれいなところはいっぱいある。
現に「福聚寺の枝垂桜」も名所だそうだ。まだ、花はつけていなかったが、別の趣があって美しいと思った。
「良い時だけを見たい」という愚かな我がままが、自然を壊す様は見るに忍びない。
わざわざ名所に出かけて、人ごみを見るよりも、四季を通して、今そこにある美しさを愛でる余裕を持ちたいものだと思う。
福聚寺の庭には「知足=はだかにて生まれてきたに何不足=」と刻まれていた。

日本の人権について

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この春は統一地方選挙だ。
選挙の時期が来ると京都の友人、R君を思い出す。
当時、彼は白いシトロエン2CVと色は忘れたが伯父さんから貰ったというジャガーXJ12SⅡに乗り、ジェットスキーやトライアスロンを愛するナイスガイ(古いか?)だった。
だが、彼を思い出すのはそんなことではない。
北朝鮮国籍の彼が日本で生まれ育った三世なのに参政権がない(洒落にもならない!)という日本国民として恥ずかしい事実を突きつけられてからのことなのだ。
R君は自分の住んでいる町の議員や首長を選べないのだ。

この国では「納税者=有権者」という民主主義の原則はどうなってしまったのだろうか? 国民である者以外の人権はまるで無視されているようだ。
政治哲学者ハンナ・アレントはその著「全体主義の起源」の中で「近代の人権概念が、国民国家の枠の中で国民であるものに限って人権を保障するという原理に基づいている限り、少数民族、難民、無国籍者はこの人権の埒外に置かれざるを得ない。」と批判している。
さらに、日本国の外国人に対する人権軽視は強烈で、「指紋押捺制度」こそ無くなりはしたものの、未だに義務付けられている「外国人登録証の常時携帯」(特別永住者は行政罰だが、以外は刑事罰)はアパルトヘイト並みの道理に合わない法律だと思う。
こうした人権軽視の状況から外国人が開放されるためには、「帰化」するしかないという乱暴な意見もあるようだが、だからといって北朝鮮の歴史と民族の誇りを持っているR君に「帰化」を求めるのはそれこそ人権侵害になるだろう。

一部の自治体ではガイコクジンの公務員任用や外国人会議が設置され始めたようだが、あくまで一部で、まだまだ日本国としての人権への取り組みは鈍い。人権に関する情報がほとんど扱われていないことにも原因があるのではないか。
例えば、参政権を含めて、「アイヌ民族や在日韓国・朝鮮人に対する処遇の問題」は1998年、国際人権委員会から日本政府に対して勧告が出ているそうだし、代用監獄(*)の問題は同委員会から毎年指摘を受けているそうだが、そうした報道は一向に聞いたことがないのは何故なのか?

「人権は普遍なのか」(岩波ブックレット)で仏文学者の小林善彦氏は「人権のない民主主義というのは、形はどんなに民主主義でもほんものの民主主義ではない」「民主主義と人権はどちらかがないときには、どちらも成立しない」と言い切っている。
日本政府は、軍備で国際貢献しようとする以前に、まず、人権というものをしっかり考えられるような国になることが先決ではないだろうか?
相手を尊重してこそ国際貢献も生きるというものだ。

(*)代用監獄問題
代用刑事施設(=留置場)に収容されることにより、自白獲得のための長時間の取調べが連日にわたって行われ、人権の侵害、虚偽の自白の誘発、ひいては冤罪の原因となっている懸念があり、自白の強要を行うことは日本国憲法38条1項2項や人権条約に違反する行為であるとされる。
たしかに、ライブドア事件の堀江被告の場合の拘留期間が異常に長かったのは記憶に新しい。

恐竜VS顔の見える店

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地方版のニュースを見ていたら、お隣の宮城県名取市で東北一のショッピングセンターがオープンしたことが放映されていた。
まだ、「箱物か」と思うとガッカリする。
この分野で「先進国」米国では、もうこうした郊外型ショッピングセンターから商店街に店が戻っているというのに、、、。

ご他聞にもれず、実家のそばにもそこそこ大きなショッピングモールがある。
最初は物珍しさも手伝ってか、父と一緒に週に2、3度は買い物に出かけていた母も、父が運転を止めてしまった後はとくに、昔からある地元の小さなスーパーマーケットを中心に買い物をしている。
ショッピングモールは駐車場に入るのもたいへんだし、やっととめたかと思うと駐車場から売り場までも歩く。さらに店の中でも無駄に歩かされるからイヤだというのだ。
小さな店の良いところは、そういう面倒なことがないことと、買うものを選ぶ手間がいらないことにある。
例えば、マヨネーズは味の素でもキューピーでもあったものを買う(そのくらいの選択肢はあるか?失礼!)。普段より高いときは次の機会にする。
どうも、家の老人にとって「品揃えの多さ」は意味のないことらしい。

さて、大規模量販店から離れてみると肉や魚は専門店がイキのいいことに気付く(今、残っている専門店は近くの飲食店に卸している店が多いので商品の回転も速いからなのかもしれない)。
さらに、量販店が決して安くはないことが分かる(たとえ安売りの日でもだ!それは設備や人件費などを考えてみれば容易に想像がつくはずだ)。
大きな駐車場から延々と歩かされることを考えれば、店の渡り歩きぐらい楽なものだ。
こうして実家の食卓は
肉、魚→専門店
米、野菜→自分ちの畑かもらい物
乾物、調味料→小さなスーパー
で賄われる。

そして、おまけは店での会話があって老人にやさしいことだ。
話は戻って、高齢化が進む日本で、あんな大規模なショッピングセンターがこれから流行るのだろうか?

強風

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郡山市で看板の仕事をしている友人の話によると2月は「風害」でメンテナンス作業が忙しかったそうだ。
風速がメーカーの想定値を大きく超えたため、枠が外れたり素材のプラスチックが割れるなどの被害が相次いだ。
幸い事故にいたるほどの被害はなかったようだが、気象庁によると2月度の最大瞬間風速は43mだったそうだ
最大風速(10分間の平均の風速)が17.2m/s以上に発達したものは台風と呼ぶそうだから、瞬間とはいえ、とてつもない強風が吹いていたのだ。

地球の温暖化は着実に忍び寄っている。
地上でもこれだけの強風が吹くのだから、上空の風も推して知るべし、雲のない晴天が続くわけだ。
この晴天は更なる温暖化に拍車をかけ、温暖化スパイラルに突入したことを実感させられたのだった。自然を破壊し続けてきたツケはこれから回ってくるのかも知れない。

今回の世界的な株価急落は先進国と新興国の温度差が生んだ風のように感じた。
国内では貧富の格差が比例して犯罪率を上げている。
格差が広がる一方では風速は強まるばかりだし、固定化すれば風の当たるところは一所になって、その部分は簡単に破壊される。
差のあるところに風は生まれるが、差が広がれば想定以上に風力は強まる。
この期に及んで、暴風壁を造るのか、風の起きないシステムをつくるのか?という重要な選択を迫られている。
うららかな春を思わせる日に、今冬を振り返ってそんなことを考えた。

F1の新時代到来?

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F1マシンといえば、今や広告塔そのものだが、ホンダは今シーズン、スポンサーロゴを廃して、地球デザインの描かれたマシンで参戦すると発表した。

F1マシンの塗色は1950年に「F1世界選手権」が始まって以来、ほとんどが60年代半ばまでナショナルカラー一色に塗られていた。メーカーが国の威信をかけたオリンピックのような側面もあったのだろう。
因みに、英国の緑は有名だが、独国は銀、仏国は青、伊国は赤。東京オリンピックの年に参戦したホンダは白地に赤の日の丸カラーだった。
しかし、1968年にロータスが全身をタバコ会社(ゴールデン・リーフ)のパッケージで包んだ49Bを発表すると70年代には商業主義時代に突入した。当時のF1ファンは「品がない」と嘆いたものだった。
現在もフェラーリ人気が続いているのは、どの時代にも一貫してナショナル・カラーをベースにしていたことが要因の一つだろう(最近はマルボロ・レッドだが、、、)。

こうして、ボディカラーが無国籍になって久しいが、もはやF1の世界も環境問題からは逃れられない時代に入ったということだろう。
これも商業主義の延長と捕らえる向きもあるだろうが、ホンダが逸早く「地球」をテーマにしたことは同国人として誇らしい気持ちだ。
さらに、ホンダ・チームは専用サイトを開設し、環境保護を目的とするチャリティー活動を実施するという徹底ぶりだ。
http://www.myearthdream.com
アウディは昨年ディーゼル・エンジンでル・マンを制したが、ホンダはF1を介してどう環境問題の解決に向けて技術開発をしていくのか?
興味の尽きないところである。

自動車評論ゴッコ2

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誰でもレクサスLS460に乗ってみれば、「この車はもはや次元の違うところにいる」ことが分かるはずだ。とにかく、一々の作りこみの凄さは伝わる。
ショールームに飾られている同車を眺めているだけでも、ボディのチリの正確さや窓枠のサッシ(三次局面)の一体形成など、細部の手間の積み重ねによって、優秀なCD値が、実現されていることがわかる。
そして、この手間が必ずしも熟練工を介しているわけではないところが新しい。

それでも、高級車市場の技術競争は凄まじいのだろう。
同じ階層に属するE320の7速オートマチックで驚いていたら、こちらは8速だった(!)。
一速余計というせっかくの技術力の見せ場も、私くらいの運転技量ではそれほど魅力あるものには感じなかったが、このレベルになるとメーカーにとっては「技術的に、どうよっ!」くらいの自慢話なのかもしれない。
ここまでギアを刻むのであれば、いっそのことCVT(無段変速)でもいいくらいだが、最近のCVTはあえて「段」をつけて“スポーティ走行”を可能にしているそうだから、CVTだろうがオートマチックだろうが目指すところは一所なのかもしれない。
それでも、なおかつ高級車がオートマチックを選択しているのは、メーカーとして高級車とCVTがどこか結びつかないところが有るからなのだろう。

駆動系に限らず、電子制御された動きはどの部分であっても、あくまで「自然」であり、ウルトラ・スムーズだ。ハンドルやアクセル、ブレーキなどの操作にも一切その介在を感じさせない。
もはや乗っけられ感すらないが、これが普通になると「運転がうまくなった?」と勘違いするオーナーが増えてしまって、かえって危険な気はする。
素晴らしい性能を持っているとはいえ、事実上2トンの物体なのだから、慣性の法則からは逃げられないことを思い知らされたときには、既に後悔できない事態になっていることにもなりかねない。

メルセデス以上に静粛な室内は、Eクラスで目立った空調のファンの音さえもそつなく“ツメ”られている。
アッという間にMAXスピードにたどり着く加速もさることながら、その速度ですらハイギァードな8速を介して、たった2600回転で粛々と回るエンジン音は、緻密に遮断された路面音などと相俟って、静粛この上ない異次元のレベルだと断言できる。
午前中乗ったEクラスが同じセグメントなのが不思議なくらいだ。
こうして乗り比べてみると、Eクラスよりも価格が安く、Sクラスと同等か、場合によってはそれ以上の性能を手に入れることができるのだから「しがらみのない」米国でこそ、売れて当然だと思う。
それにしても、ここまで「無音」にこだわった車はかつてなかったのではないだろうか(だからといって、世界的にレクサスばかりが売れるのかというと、そうとばかりもいえないのが面白いところだが、、、)。

LS460のシルエットは、何故か50年代後半のF1カー、ヴァンウォールあたりを意識させる。長いフロントフードと後半に押しやられたキャビンという視覚的なものだけでなく、最後のフロントエンジンF1として空力を意識しながらも、ミッドシップの新しい波に飲み込まれてしまう滅びの美学が、いわゆるセダンの最後の砦となるかもしれないという危機感と重なってしまうからなのかもしれない。
とことんマーケティングをした結果なのだろうが、不満が出ないところがこの車の欠点なのかもしれない。

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さて、最初の命題は「この二台が好い車か?」というものだった。
二台とも素晴らしく良い車ではあったが、答えは残念ながら「NO」である。
まず、私自身がこの二台のような「高級」とはやっぱり縁遠い人間だったからだと思う。
一番違和感があったのは、今回の二台が「高級」を「理詰め」で体現しようとしているということだった。
生産国のまじめな国民性も手伝って、彼らの目標とする「高級」に向かって、徹頭徹尾、腐心の跡が窺える。
真面目なことは立派なことだが、理論万能思考で本当に高級車をつくれるのだろうかだろうか?という疑問が直ぐにわいた。
その結果として、素晴らしい品質は実現されているのだが、それ以上のものがないからだ。

高級という概念は階級社会が生み出すもので、高級が高級であるためには階級社会が存在する社会基盤が必要になる。高い大衆車では駄目なのだ。
たとえ、商品としてのツメが粗くてもベントレーやマセラティに「高級」を感じるのは階級社会を背景に作られている車だからなのだと思う(格差社会ではない!)。
このメーカーだったら、量産性を度外視してまでブランドの品格を保つ努力をするのではないかと思えてしまう、見えない力が働くのだろう。

そういう意味で、メルセデスは確立されたブランドなのだから、最初から高級車としての評価を受けることができるから有利だ。
しかし、最近の企業生き残りの波は、一番歴史の長い自動車会社に新興レクサスと鎬を削らざるをえない状況を強いている(それだけレクサスの急伸には凄まじいものがあるのだが、、、)。
その結果、どうしても突出した「マイバッハ」ブランドを立ち上げなければならなかったのだろう。

ブランドは企業文化であるから、時間をかけないところには育たない。
メルセデスだって、レースという場を借りて当時のハイテクを使って長い時間をかけて企業文化を育ててきた。
ジャガーだって1950年代からレースを続け、技術を磨くことによって、名声を高めて高級車の仲間入りをした。実は、英国皇室で使われるようになったのはつい最近の話だ。
現代は昔ほどレースに寛大な環境にはないので、おそらく、トヨタは市場という場を借りてハイテク技術を惜しみなくつぎ込みブランド力を高めるしかないのであろう。
さて、そうなると、レクサスが「レース以外のソフト」をどうやって開発するのか楽しみだ。

高級車ブランドが相次いで他メーカーの傘下に入り、奇しくも、今回は最後に残った自立ブランドの2メーカーの二台を試乗することができたが、結果として軍門に降ったブランドのほうが魅力的だと思えるのは皮肉な話だ。
結局、「高級車は理屈じゃないよ」という週末だった。

自動車評論ゴッコ1

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アバルト美術館の元館長、山口寿一氏によれば、いい車には「良い車」と「好い車」があるそうだ。
この週末は良い車の代表として、メルセデス・ベンツE320CDIとレクサスLS460の試乗に出向いてみた。
カーオブ・ザ・イヤーにノミネートされたほどの2台だから、「良い車」に決まってはいるだろうが、昔気質の車好きにとっては果たして「好い車」なのだろうか?

まず、メルセデス・ベンツE320CDIは「エンジンがすべて」という車だった。

排気量に沿った名前をつけるメルセデスには珍しく、排気量3000ccに対し名前は「320」だ。 C180も同じく排気量との相関性が見られないことから、ひょっとしたら、過給機(ターボチャージャー)が付いている車種は特別なのかもしれない。
E320CDIは21世紀に入って日本で売られた初めてのディーゼル乗用車であるが、東京都に見られるように、ディーゼル・アレルギーの日本で環境問題をクリアしたことは目からうろこで、今注目度№1の輸入車ではなかろうか。

欧州(特にドイツ)では昔からディーゼル乗用車を好んで乗る傾向がある。
軽油とガソリンが同価格になった70年代後半でも、横転しても発火しにくい=安全という理由で、とくに高速移動する医者や弁護士などの知的富裕層に高級乗用車として普及したのが今のディーゼル・ブームの始まりだったと思う。その当時、メルセデス・ベンツは秀逸な5気筒のターボ・ディーゼル(125PS/4350rpm、25.5mkg/2450rpm)を持っていて、そのエンジンの載ったSクラス(!)はカーグラフィック誌で“世界最速のディーゼル・サルーン”と評されていた。

最近では、1997年にボッシュがコモンレール方式を乗用車用ディーゼル・エンジンに実用化したのをキッカケに、今日では欧州の新車販売台数の6割以上がディーゼル乗用車になっているほどの売れ行きだそうだ。
そして、いまや高級車の多気筒ディーゼルは常識らしく、現地では12気筒ターボまで出ているらしい。
有限な化石燃料をマグロに例えるなら、ガソリンがトロだとすると軽油は赤身だから、できるだけ化石燃料の枯渇を遅らせようとする欧州人の知恵なのかもしれない。
もともと、最新のガソリン・エンジンでも燃焼効率はせいぜい60%程度だから、80%効率のディーゼル・エンジンは素のままでも20%は無駄がない。
つまり、燃えずに大気中に排出される無駄なエネルギーはディーゼルのほうが20%少ないということだから、燃費がいいのはもとより、環境性能も上げやすいという素性を持っているはずだ。
では何故、ガソリン・エンジンよりハイテクなディーゼル・エンジンが日本では毛嫌いされるのだろうか?
理由は二つ考えられる。
1)日本が主に輸入している中東原油は硫黄分が高く、北海油田産の原油精製に比べてコストが高くつくため、脱硫(精製)技術がなかなか進まなかったことが一つ。
2)日本では米国と同じで、目に見えないCO2の排出よりも微粒子を伴うNOXなどの排出を嫌う国民性があり、これがもう一つの理由だろう。
しかし、最近になって日本でも軽油の精製レベルが上がり、欧州並みの製品をつくり出すようになって、品質が安定し、微粒子除去装置(いわゆる触媒)の開発が進んだおかげで、この二つの問題は解消しつつあり、今回、メルセデスがディーゼル車の再輸入に踏み切ったのだった(めでたしっ!)。

試乗車に話を戻すと、最新のディーゼル・エンジンは高圧燃料噴射装置とターボチャージャーの組み合わせによって、4000回転で最高出力211PSを引き出す。
たった3リッターでこの最高出力は、四半世紀前の同社の同排気量5気筒ディーゼルの1.7倍にもなるのだから、そうとう大したものだと思う。
どうりで1770kgものボディが高速域でも軽々と加速するわけだ。
しかし、全体にわたる軽快感は、むしろ1600~2400の広い回転域でフラットに発生する55.1mkgという強大なトルクとウルトラ・スムーズな7速オートマチックとの組み合わせによって生み出されるものであることが判った。
ちなみに、この最高トルクは同じEクラスの5500ccガソリン車の54mkgをも上回る!
こういう安楽な車に乗ると「やはり、乗用車はトルクだ!」と思ってしまうのも事実だ。

この素晴らしいトルク特性はEクラスのボディの大きさを感じさせないどころか、スポーツカーとは違った不思議な軽快さを演出する。
タコメータを見ているとエンジンはあくまで低回転なのにスピード・メータだけは見る見る上がっていく。シフトショックを感じることがないからなおさら不思議だ。
意図的なシフトダウンのときでも、エンジン回転の幅の狭さと7速オートマのギア比がクロス(接近)しすぎるくらいクロスしているため、何速に落とそうが、受け入れてくれるハズという安心感が常にあった。
多変速オートマチックはディーゼル・エンジンのフラット・トルクによって生かされるのかもしれない。回転域の広いエンジンではギアの枚数がほどほどに少ないほうがメリハリが効いてスポーティだと思うし、おそらく同じくらいのトルクを持つ前出のE550(ガソリン車)では7速オートマの良さが半減されてしまうと思う。E550だったら6速ミッションくらいで乗りたいものだ。
「機械が緻密な分、人間はズボラができる」という感じの車でもあった。

「軽快さ」と同時に、走り出してすぐに気付くのは静粛性だろう。
遮音のため、完璧にカプセルに入ったエンジンは、止まっているときから充分に静かで、一番気になった音が空調のファンだったと言えば、どのくらい静かかお分かりいただけると思う。
ディーゼル=うるさい、(ついでに)くさい、は完全に過去の話しになってしまったようだ。

ディーゼル車というと、もう一つ気になるのはランニングコストであるが、燃費は市内でも14km/Lだから、一回の給油(80L)で1000km以上走りきることになる。サンデードライバーならば一月に一回給油するかどうかというところだ。
さらにディーゼル車にはつきもののオイル交換だが、15000kmに一回だそうだから、恐ろしくランニングコストは低いと想像できる。
現実味のない話ではあるが、若いセールス氏の話によると、カプセルに包まれたエンジン単体の耐久性は、メンテナンスを欠かさなければ400万km以上の走行が可能だそうだから、ボディがどのくらいモツのか呆れて聞くのを忘れたが、耐久性に関しては、昔のメルセデス神話に戻ったようだった。
ただ、いくらランニングコストが安くても、イニシャルが840万円では、今の私にとってはこれまた現実味のない話になってしまうのが残念だ。

パッセンジャーを包み込むようにえぐられたダッシュボードや伝統に反し二周りほど小さくなったハンドル、短いシフトレバーなどで「スポーティ」を演出しようとはしているが、出自は隠せない。
白いボディに黒一色のインテリアの色気なさは、新生とは言ってもメルセデスのご愛嬌(誠意の表れでもあるが)以外の何者でもないと思う。
素晴らしくできのいいエンジンの印象が強すぎて、正直、運転席回りやパッケージの感想があまりない。初めてアルファロメオのV6に乗ったときとまったく同じだ。
エンジンの種類は違うが、私はV6と相性がいいのかもしれない。
正にエンジンありきの車だった。

つづく、、、

出会い

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白河の「だるま市」で達磨さんを買って、できればイカ人参と一緒に送ってほしいと古い友人に頼まれた。
このことがキッカケで、彼が最近敬愛しているという、曰く「禅坊主の玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さん」の「慈悲をめぐる心象スケッチ」という本を贈ってもらった。
玄侑宗久氏は1956年に福島県三春町に生まれ、2001年「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞し、現在は臨済宗妙心寺派「福聚寺」(三春町)の副住職をされている。
早速読んでみると、同い年とは思えない知識量と表現力(芥川作家だからアタリマエなのだが)に圧倒された。それは、山本周五郎賞を取った梁石日(やん そぎる)氏の「血と骨」を読んだとき以来の強烈さだった。
まだ50歳にして氏の洞察力は、梁氏の経験に裏付けられた迫力にも劣らない立派な作品だった。月並みな表現を借りれば、とてつもなく頭のいい方なのが窺える。
久々に力のある作品に遭遇して「ああ、そうですかぁ」となって、氏の「サンショウウオの明るい禅」にあるようにボーッとしているしか仕様がなくなった。
同県人にこんな人がいるなんて!
ご縁があればお会いしてみたいと思っている。
http://www.genyu-sokyu.com

ニュース二題

国内大手生保で初めて、住友生命保険は保険契約時の被保険者の年齢計算を満年齢に切り替えるようだ。
すでにご存知の方も多いと思うが、大手生命会社に加入するとき、満年齢では加入できなかった。
誕生日の半年前から一歳上がってしまう「保険年齢」は、結果、保険料が上がることになるので、契約者にとってはかなり不利な方式だったのだ。
戦後、保険会社の体力が落ちた状況でできたこの方式をバブルを経た後も使い続けてきたわけだ。
まさに護送船団。
過去はもちろん、配当を出さなくなってからは、いったいこの方式でどれだけ儲けたのだろう?
そろそろ国内の生保会社も体力を回復してきたということか。

福島県では須賀川市で木から下りられなくなった猫が保護され、公募により新しい飼い主が見つかったことがニュースになっていた。
暮れに有名になった「崖っぷち犬」も初めて動物を飼うという徳島のご婦人が射当てた(心配なのは庭木にロープでポツンとつながれたこの犬の映像だったが)。
こうしてニュースになった犬や猫は引く手数多のようだ。
が、一方、この国では年間40万もの犬猫が保健所でショブンされている。
なんと一日あたり1000匹以上!
犬の47%は子犬であり、猫の70%は子猫だそうです。
犬や猫を飼いたくなったら、是非、保健所に行ってみてください。
あなたの出会いが一つの命を救います。

マニュアル

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うかつにも(?)ハマってしまうような素敵な車は現れないものか?
ミイラ取りがミイラになってしまうような、、、。
と、思いつつ昨年は積極的に試乗を試みたが、「いつかは乗りたい!」とまで、心を動かされるような車には残念ながら出会えなかった。
それどころか、試乗して一年も経っていないのに、もう、すっかり忘れてしまった車さえあるくらいだ(別にボケが入ったわけではない、と本人は思っているのだが、、、)。
興醒めの一因は、ほとんどの車がオートマチック(AT)車になってしまったことではなかろうか?何故なら、ルノースポールやインプレッサS204を今でも克明に思い出すことができるのは、きっと両車ともマニュアル(MT)車だったからに違いない。

日本の交通事情を考えれば、時代が積極的に運転の負担が少ないAT車を増やしたのは当然であるが、この急激なAT車の増殖はMT車を絶滅危惧種にしようとしている。
日本車のAT率は実に95%以上だそうで、もはやMT車の設定のない車種すら数多くある。
ちなみに欧州でのAT比率は5%以下(イタリアに至っては2%!)だそうだから、欧州で売れている日本車もMT車が主流なはずだ。
並居る列強の中、欧州で売れている日本製のMT車はそうとういいのだろうと想像する。

同じ車でも、実はAT車はMT車とは別な車だと思う。
クラッチの微妙な繋ぎ感や、ギアのストローク感を意識させるMT車の儀式は、ハンドルを握って、アクセルを踏むだけの行為とは決定的に異なるものだし、AT車はアクセルを踏まなくてもブレーキを放すだけで進んでしまったり、うっかりブレーキとアクセルを間違えてしまって事故を起こしてしまったりと、MT車とは違う感覚が必要だからだ。
フェラーリを筆頭とするパドルシフト(ハンドルを放さずにオートマティックのシフトをマニュアルの様にアップしたりダウンしたりすることのできるスイッチ状のシフト)にしたところで、これはサーキットなどでより早く走るための装置(実際MT車よりも早い)であって、「早い=スポーティでない」ことは明らかだから、目を吊り上げて走るときでもMTの方法とは別の熟練が要求される。

MT車の運転はよく知的行為であると言われるが、ともにスポーティでもあると思う。
そして、それは乗っている車によらないところが面白い。別に、スポーツカーでなくてもいいのだ。
車にそこまで求めない向きにはどうでも良い話だが、運転が好きなものにとってここは重要なポイントだと思う。
そういう意味で国内で売られている車たちがAT車ばかりになってしまったのは残念な限りだ。
若い人たちに車好きが少なくなっているのはMT車の急減も一因ではないだろうか?

成せば成るために

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「人間万事塞翁が馬」が「にんげん、、、」ではなく「じんかん、、、」と読むとは、恥ずかしい話、最近知った。
ちなみに「人間(じんかん)」とは「世間」という意味だそうだ。
ことほど左様に、半世紀も生きてきて、世の中知らないことだらけなことに気付かされ、赤面することしきりである。
こんなことが二、三度続くと、分かっている全てのことが「分かっているつもり」であって、「実は何も分からない」あるいは「誤解していた」なんてことが、いっぱいあるんじゃなかろうか?と不安になってくる。
情けなくも思うし、「一人の能力なんてそんなものか」とも思う。

昨年暮に友人のT氏が旧車の雑誌に載った。
共通の友人のN氏と、二年半の歳月をかけて仕上げた1952年型の車と共に、なんと6ページにも渡ってレストアの過程がカラーで紹介されていた。
土にかえりかけていた当初の車の状態と完成なったすばらしい仕上がりを見ると、「二年半」という年月は異例に早い、と誰しも思うはずだ。
この間、T氏は、休日は勿論、出勤前に毎朝4時に作業場に通っては毎日2~3時間づつコツコツと作業を進めたそうだから頭が下がる。
さらに、この情熱にはN氏とその友人達のプロ顔負けの技術が加わっていたのだから、二年半の中身の濃さが窺える。
そして、このレストアの凄いところは、すべて自分たちの手で仕上げたところにある。

無いパーツは作ったそうだ。
そこまで出来たのも、すべてN氏との出会いだったとT氏は語る。
はじめ、T氏はこのレストア計画を諦めかけていたが、N氏の前向きな発想が気持ちを奮い立たせた。「無いものはつくればいい。」

しかし、元はといえば、T氏の情熱がN氏との出会いをつくり、あのコンクール・コンディションのメルセデスを仕上げることができたのだと思う。
夢を持ち続けた人とそれを技術で支えた人たち、喜びは何倍にも広がり、完成の連絡を受けたときにはこっちまで嬉しくなってしまった。
一人の力には限界があるが、仲間と力を合わせれば何でも出来るということをこの一台は教えてくれた。
当初は、「最後のレストア」と言っていたT氏も、どうやら最近では「もう一台、、、」と思っているようだ。

富の再分配という視点

人が集団で暮らすようになった時から、格差は生まれた。
そして、いろいろな分野で、強いものと弱いものができたので、政(まつりごと)が生まれた。
政は格差の調整である。
昔、政治学で「政治は富の再分配である」と習った。
格差にはお金だけでなく、身体的なものもあれば、知的、精神的なもの(いわゆる福祉)もある。
そうしたものを是正するのが政治というシステムだ。
極論すれば、政治は弱者が弱者としてではなく、普通に生きていけるようにするシステムだと思う。
しかし、昨今の日本の政府はその格差を是認しようとしている。
政府は景気の牽引車を応援し、景気感によって経済を立て直させようとしているのだ。
何かおかしくないか?
この方式(=放任主義)を採用するのであれば、社会主義のようなバブルまでの政府の大きさ(=公務員の数)は必要ないんじゃなかろうか?
現場の公務員だけ減らして、官僚の数は一向に減らないし、減らす話もウヤムヤだ。
こうした目くらましの術を駆使するなんて、まさに「霞」ヶ関だと思いませんか?
富の再分配を出来なくなった大きな政府はいらない。

会うのが一番

過去の情報で良い印象を持たれていない東国原氏の選挙前の下馬評はあまり芳しいものではなかった。
感情までいかない「感じ」の段階で、宮崎県民に嫌われていたのだ。
通常、「感じ」の段階では、「やっぱり」のレベルでその後「嫌い」になる度合いが加速度的に進行するものだが、氏の場合はまったく違った。
誰にも頼らず、より多くの県民に「直接会う」という行動に出たのだ。
県民に「何故嫌いか?」という理論武装をされる前に(得意のマスコミを使わずに)真摯な態度で県民一人ひとりに会うことで、その期待を裏切ったのだと思う。
「嫌い」という感情は「まさか」から生まれるように、この裏切りが逆に作用して、好意的に取られたわけだ。
「百聞は一見にしかず」というところか。

ところで、最近の若い人たちは、隣の人とメールをしているそうだ。
まさかに誇張だとは思うが、あながち嘘でもなさそうだ。
それほど世の中、バーチャルなものが増えてしまった。
友人・知人でもそうなのだから、議員のセンセイや市長、知事もをや、だ。
バーチャルになってしまっていた知事の存在に、知事になっても会いに来てくれそうな氏が選ばれたのではないかと見ている。

東国原氏の当選は「会う」ということの大切さを改めて教えてくれたと思う。

まさかの別れ

「嫌い」という感情は面白い。
つい昨日まであんなに仲の良かった二人が、今日は口も聞かない(まさにビートルズの「イエスタデイ」だ!)。
大同小異、そんな二人は口にする、「どうして変わっちゃったの?」「(勝手なんですけど)信じていたのに!」「あんな人だとは思わなかった!」と。

「嫌い」という感情は、一時的にせよ興味を示したもの(=積極的に受け入れたいと思っていたもの)が「もう、受け入れられない」と判断が変わったときに生まれるものだから、最初から興味がなければ「嫌い」にもなれない。
いやよ、いやよも好きのうちか?

また、興味は最初から好意的なものと嫌悪感を伴ったものもあるが、こうした直感的感情は、「何故嫌いか?」を理由付けできるものではないから、あくまで「感じ」であって「感情」とは区別されるように思う。
ただ、「感じ」であってもインパクトが強すぎると理由付けされることもあるが、大概それは「見た目」であって、「毛嫌い」の域を出ていない。

だから、「嫌い」という感情はそんな「まさか」から生まれる。
勝手に信じて、勝手に裏切られているなんて、思われた相手は迷惑千万、まったく身勝手な話だ。
その上、「裏切り」の場合は「嫌い」の度合いが「好き」の度合いに比例するので、もし刺されでもしたら、「ご縁がありまして」などと悠長なことは言っていられない。

「ご縁」を利用したのはお互い様だから、本来、その縁を生かせなかったと自省の言葉があるべきなのだが、そんな言葉はついぞ聞いたことがない。
大概、こうした「嫌い」は防衛本能による自己弁護によって処理されることが多いのは事実だ。

この一点を見ても、人間とは勝手なものだと思うが、「その自己弁護に付き合う方の身にもなってよ」と思うこのごろだ。

阪神大震災の日

当時、盛岡に赴任したばかりの私はアパートの一室でこのニュースを知った。
あれからもう12年も経ったのだ、、、。
今朝からニュースでは慰霊祭など今日の被災地の風景が写りだされていたが、報道のしかたを見ていても、この災害が人々の記憶からは確実に薄れつつあるのが伝わってきた。
もう遠い過去なのかもしれない。
確かに、多くの被災者にとって震災は過去のものとなり、着実に復興の道を歩んでいる方も多いと思う。
しかし、一方、2000年に完成した災害復興住宅で、昨年一年間でなんと66人もの孤独死があったという暗い報告が目を引いた。
まだ、震災の影を引きずっている方も大勢いたのだ。
この7年間では460人もの人が誰にも看取られずに亡くなっているという。
なんてこった!
これでは、行政は住宅を作った時点で災害復興は終わったと思っていたのではないか?というフシがある
まったく行政は箱物を作るのは上手だがソフトを作るのはヘタクソだ。
理念ありきのソフトであるし、ソフトありきの「箱」ではないか。
震災という事態に及んで、まだ箱だけしか作っていなかったのかと思うと情けない。
孤独死というかたちで震災の被害者を増やしてどうする。
これがわが国の行政の現実なのだ。
被災地の行政も国の行政も被災者が毎年60人も孤独死していた現実の重さを感じてほしいものだ。

濃い人生

早いもので、今日15日で「松の内」は終わる。
馬鹿騒ぎの新年の番組の中で、二人のお年寄りを二日にわたってゲストに迎える静かな番組があった。

初日の日野原重明さん(96歳!)は、周知のとおり、現役の医者であるが、「幻と勇気ある行動を」という言葉をいただいた。
「夢を持って行動すれば必ず勝利が訪れる」ということだが、ご高齢の日野原さんが、ビジョンとベンチャー、そしてヴィクトリーと「三つのV」という言葉を使って表現していたのが面白かった。
そして、特にその説明の中で、「医療はサイエンスだが、告知はアートだ」という言葉が印象的だった。
「医師として患者と接するには、コミュニケーションをしっかりと取り、患者を診ることが大切だ」と、医師にも人間的な成長が必要であることを後進に伝え続けている。
病気は診るが患者を診ない医者が多い中で、日野原さんの言う「心のタッチ」を大切にする生き方に共感を覚えた次第だ。

二日目の瀬戸内寂聴さん(74歳)からは「忘己利他(もうこりた)」という言葉をいただいた。
「己(おのれ)を忘れ、他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極みなり」=天台宗の開祖、最澄の言葉で、「自分の幸せは捨てておいて、とにかく人のため、人の幸せのために尽くしなさい」という教えだ。
仏教には「渇愛」と「慈悲」という2つの愛があり、「渇愛」とは自分が幸せになるための愛で、「慈悲」とは見返りを求めない愛だそうだ。
慈悲は仏様の愛を意味し、それが最高の愛で、それに近づくことが大切と瀬戸内さんは説いていた。
たしかに「渇愛」だらけの世の中だが、ほんの僅かでも一人ひとりが「慈悲」の心を持てば、もう少し救われるのではないだろうか?

二人の若々しさのパワーは、年齢的に若い人たちをも凌駕していて、「生きる」美しさがある。
番組を見ていて、お二人に共通しているところは「集中力」(=使える時間が命であること)ではないかと思う。
「集中する習慣を身につけ、自分の時間を有効に使うことが大事。その時間が長ければ、長生きしたのと同じことになる」と言い、実践している日野原さんはいったいお幾つになられるのだろう?と思った。

言葉の壁

環境は言葉を生み、言葉は文化を形成する。
そして、文化はまた環境となって思考を作り出す。

インターネットを利用していると、今更ながらに、言葉の壁が気になる。
たとえば、Yahooにしても、どうも各国でレイアウトの違いが以前より大きくなってきているようだ。
興味をもって各国のYahooを覗いてみたら、大きく分けて西欧圏とアジア圏では明らかに違うことに気付く(ローマ字かどうかという問題ではない、念の為)。
生活環境が違うから、当たり前といえばアタリマエだが、欧米人の興味の対象と我々のそれとは決定的に違うことが改めてわかる。
Yahooは検索サイトだからこの辺が如実に現れて面白い。
機械がグローバル化するとソフトは却ってお国柄(=言葉の壁)がでてくるのだろうか?

国際基準だと思って使っていたパソコンにしてもこの始末だ。
インターネットといったところで、ほとんどの日本人は所詮、日本語圏の範疇を超えられない。
この壁を越えて他国語圏の情報を理解するのは極めて困難だ。
北朝鮮に対する各国の反応が充分伝わらないのもそのせいだろう。
ステレオタイプ(=固定観念、思い込み)は、コンピュータ相手に自国語圏の情報だけを相手にしているから益々強くなるのではないかと危惧する。
こうした情報の流れ方は、自分本位の“常識”を作り上げてしまう危険をはらんでいるからだ。
TVの“刷り込み”文化とジョイントしたら、簡単に“大本営発表”の体制翼賛社会が生まれるんじゃなかろうかと心配になる。

と、いうわけでインターネットの世界でもやはり英語ができないと充分活用できていない気がしてならない。
最新技術をもってしてもソフトは何も変わっていないことに気付く。
海外のホームページを宛てもなくめくりながら、そんなことを思った次第です。

省格上げ

敗戦と同時に不戦を誓った日本の意思は変わってしまったのか?
防衛庁が昨日、防衛省に変わった。
変わったのは名前だけではない。
防衛庁の時には「付随的」だった海外活動が、省になれば自衛隊の本来任務になるという。
本来任務となれば、その任務の是非が問われることなく実行に移されるということだから、これは由々しき問題だろう。
敗戦後、盲目的な米国追随を続けてきて、日米防衛協力がますます加速している時期だけに、日本国内のチェック機能が無くなって、防衛省が一人歩き(米国軍の配下という位置づけで)しないだろうかと心配になるわけだ。
もちろん、今回の省格上げも米国の了解済のことだろうが、米国にとってだけ都合のいい今回の省格上げを、安倍氏は何故「戦後レジームから脱却する大きな第一歩」と宣伝するのかよくわからない。
省になれば、弱腰ではあったが政府と外務省の「のらり、くらり」作戦はもう利かない。
自衛隊は日本の軍隊ではなくなり、完全に米国戦略の枠組みに組み込まれる。
防衛省格上げは自衛隊の指揮権を米国に譲り渡したのも同然なのだと思う。