記事一覧

政治不信

今年は呆れてものも言えない政治状況が続いた。
昨年の衆議院選で大勝した与党の「強行採決」ラッシュに始まり、厚生労働省の外局(=量的・質的に特殊性をもつ事務を処理する機関)である社会保険庁の「年金問題」、昇格したばかりの防衛省のテロ特措法延長関連の「データ改ざん問題」。それに例年の(?)大臣級の政治家のカネにまつわる問題と突然の安倍総理大臣の辞任劇が加わって、まずはにぎやかな年だった。

夏の参院選以降、法案が中々通らない国会を「ねじれ」と称して問題視する向きもあるようだが、今までの国会があまりにも儀礼的だったとする識者たちには少数でも歓迎する風潮さえある。彼らは談合には慣れているが、「議論に慣れていないだけだ」と言っている。

それにしても、その「ねじれ国会」を「大連立」で乗り切ろうとしたことは、少なくとも、直近の参議院選で大勝した民主党のすることではなかろう。民主党内で「ねじれ」ている場合ではないのではないか?今回は、そのまま、「党首辞任」を容認すべきであったろう(組織がトップを慰留するなど、聞いたことがない)。

今回の「慰留劇」で民主党は政治を国民の手からまた切り離したように思う。
これだけ政治不信が続いているのに、肝心の国会議員の多くが自民か民主のどちらかの傘に入れてもらうことだけを考えているのが辛い。「二大政党」を目指すのもいいが、国会議員なら雨にぬれても外に出なければならない時もあるだろう。
こうした特殊なサラリーマン根性の国会議員ばかり目立ち、新しい局面をつくる意欲のある政治家がでないことが一番の問題ではなかろうか?
だいたい、管理された国会議員なんて意味あります?

値上げ騒動

アップロードファイル 63-1.jpg

今回の食品や石油の“値上げ騒動”は、農作物の不作や凶作、産油国のゴリ押しが原因ではないところに根の深さがあると思う。
いかなる環境下でもプラスの運用実績を目指すことを究極的な目標とするヘッジファンドは、「農産物を燃料として使う」などという罰当たりな発想を得て今回の“騒動”を起こしている。
そこに、米国のサブプライム・ローン(中低所得者に向けた住宅ローン)の焦げ付きを遠因とする、行き場を失った「余剰資金」がそれに拍車をかけているというのが実情らしい。
つまり、今回の“値上げ騒動”はマネーゲーム!なわけだ。

金融商品はもはや化け物と化し、当面手の付けられない状況になってしまっているのかもしれない。
おそらく、農産物が燃料に化けて多くの人の食料が奪われることなど、その金融商品を買っている人はまったく意識しないであろう。
すべての取引はもはや証券化され、金融商品の説明を受ける時点で、その資金の行き先が小麦粉などの取引に使われていることなど判るわけがないからだ。
そして、そんな商品を売っている銀行や保険会社、証券会社もわからなくなっていることが、問題の根を深くしている。現に、サブプライム・ローンの焦げ付きの影響がどの程度なのか、誰も答えられないのは、これを使った商品がどれほどあるのか把握できなくなっているからだ。
近代の金融システムが「自動的に」より稼げる商品を選択してしまうことに問題はある。
もはやシステムは「儲け」と言う一点で一人歩きしてしまっている。

儲けることは悪いことではないと思うが、こうしたマネーゲームでは一部の人たちが利益を独占してしまうことに問題はある。
デリバティブ(金融派生商品)を使った商品を買うことによっておこぼれに与ることもできるではないか、との意見もあるが、実際に大金を掴んでいる人はごく僅かだし、飢餓に瀕している国の人々はゲームに参加するチャンスもない。
そんなマネーゲームが世界的な飢餓の原因になることは由々しき問題ではないだろうか?

まだ日本は飢餓の状況にはないが、今回の“値上げ騒動”にはそうとう腹立たしい思いがある。

平和

アップロードファイル 62-1.jpg

先週土曜日、中村哲医師が出演する番組を見た。
「アフガニスタンでは今、干ばつで、1200万人が被災し、今も190万人が食糧危機に直面している。飲み水の確保さえ、ままならず、給水場では、わずかな水を求め、争いが生じている」そうだ。
そこで、「アフガニスタンの9割が農民。その人たちが食っていくためには耕さなきゃいけない。砂漠化した土地を緑に返す。それがアフガン復興の基礎だ」と、中村医師は確信したらしい。
不毛なアフガニスタンの地に用水路を造るという医師の計画に、農民や元タリバンや軍閥の傭兵など立場を越えて、人々が結集したそうだ。
「すぐそばでは、米軍の武装ヘリがかけぬける戦乱の地。」
「だが、人々は、家族と共に田畑を耕して平和に暮らす日を夢み、荒野に格闘を挑む。」

という話の後に、同席した衆議院議員の塩川正十郎氏が「アフガニスタンも早く立派な政府をもって平和になってほしい」と述べていた。
御用学者(?)の森本敏氏は「ISAF(国際治安支援部隊)はテロとの戦いで重要な役割を果たしている。」と述べた。
しかし、「タリバン(イスラム原理主義者)」は悪の権化のように言われているが中村氏が接しているタリバンはどうもそうではないらしい。そもそもアフガニスタンは我々の考える「国家」とは我々近代国家を自称する人々とは概念が違うらしい。

政治家や学者がスタジオで何を言おうが、頭で考えた理論は現地で一緒に作業を積み重ねる医師の言葉にはかなわないことが伝わる。

辞書の示すとおり、一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使を「テロ」と規定するなら、国連が認めようが認めまいが、アフガニスタンやイラクに対する各国家による武力行使(ガソリン・スタンドも含めて!)も「テロ」と言えるのではなかろうか?

たしかに、それらの国には人道支援を求める人たちも少なからず居たことは事実だと思うが、それはあくまで「人道的な支援」であって、戦争あるいは戦闘といった暴力をもって制するものであってはならないと思う。
大体、人の国の「平和」を実現するために武器を持っていくのはいかがなものか?
反対意見を持った人たちを排除した上に成り立った「平和」は本当の意味で民主的なものなのだろうか?というという疑問がすぐに湧いてくる。

少なくとも日本は反対意見を持つ人たちを簡単に排除する国であってはならないと思う。ましてや当事国の利害の外での「我が国益の」ためになど、、、。

(括弧内は日本テレビのHPから)http://www.ytv.co.jp/wakeup/index.html

稜線の印象

アップロードファイル 61-1.jpg

展示車を見るだけの“発表会”は、人んちの子供の学芸会を見に行くようなもので、妙に居心地が悪いから、近づかないことにしているのだが、車好きの子供にせがまれて、しぶしぶ近くのディーラーに行ってきた。
残念ながら、お目当ての「マイクラ」(マーチのバリアブル・トップ)は、そのディーラーの割当て分が売切れてしまっていて見ることができなかったが、ちょうどスカイライン・クーペの“発表会”にぶつかった。

スカイラインは、父が当時「レオーネ」になったスバルを嫌って、初めて所有したFR車だった。それから「7番目の―」まで4代に渡って乗っていたから、よほど彼は気に入っていたのだろうし、私たち家族にとっても「スカイライン」という名前は、今もって特別な響きがある。
そんな判官びいきがあるものだから、つい一年前に試乗した新型に「スカイラインよ、お前もか?」と言っていた私が、気付いたら、クーペの運転席に座っていた(お恥ずかしい!)。

一年ぶりに見るスカイライン(前回はセダンの試乗)は、運転席からの眺めでは、また成長したように思えた(カタログ・データによると、クーペらしく全長、全高でそれぞれ10cmと6cmずつ短くなってはいるものの全幅は5cmも伸びているから当然なのだが、、、)。
セダンよりドアが二枚も少ないのに、ほぼ50kg(1660kg)も重くなっていることを聞いて、さらに落胆。黒一色の室内は上質感には乏しいものの往年の“質実剛健”感があって好ましかったので、何より、この大きさは残念だ。

運転席を離れてトランクを開けてみたら、なんで、こんなに立派になっちゃったの?の「答え」がそこにあった。
車の大きさに比べて異常に小さい(狭いどころではなく)!ホイール・ベースも燃料タンクもセダンと同じ数値なのに、だ。これじゃ、スーツケースも乗らないじゃないか!
それに、全高が低いとはいえ後席は長時間おとなが乗れるシロモノではない。私の荷物はどこに置けばいいの?
つまり、このクーペはセダンより「剛性を高めて、走りを重視しました」ということなのだろう。

だが、ここまでしなくても、セダンの試乗時にも剛性感は充分感じられたから、あれ以上、実用性を犠牲にする意味があるのだろうか疑問に思う。
もうすぐGTRという“本格派”が出る直前なのに、そこまでサーキットを意識してしまうと、GTRを買えない人のための車になってしまいやすまいか、余計なことだが心配になる。
ニッサンの迷いが見えるクーペなのでした。

エコする意義

アップロードファイル 60-1.jpg

産業革命以降に人類が地球の温暖化を加速させたのであれば、250年かけて変わってきた地球環境を元に戻すのには、やはり250年を要するのだろうか?
そんなことを考えていたら、温暖化した地球環境は元に戻るのだろうか?という疑問と、元に戻せるとすれば、一体どこを基準に戻すと言うのだろう? という疑問が湧いてきた。
地球は生きているわけだから、常に変化している。
大規模な砂漠化や、ハリケーン(台風)の大型化、生態系の変化、昆虫の異常発生も人類が温暖化を加速しているかも知れないが、ただの変化の一環かもしれない。

一万年前に終わったと言われている氷河期は、北極圏や南極という表層があるということで、いまだに氷河期であるとする見解がある。氷河期は、大気中の二酸化炭素濃度の急激な上昇によって終焉するらしいが、そういうことであれば、今、人類のしてきたことに関わらず、氷河期の最終段階にいることになる。
じたばたしても始まらないと言うことだ。

いずれにしても、地球が「生きている」ということであれば、常態はないはずだから、今回の世界規模の環境運動は、急激に温暖化によってもたらされる環境変化が人類の存続に影響のないところまで戻そう、あるいは、これ以上積極的に温暖化に加わるのはやめよう、というところなのだろう。

2004年に米国防省が発表した「地球温暖化による大規模な気候変動を想定した安全保障」によれば、地球温暖化による海流の変化が原因で、北半球では2010年から平均気温が下がり始め、2017年には平均気温が7~8度低下すると報告されている。
また、南半球では急激な気温の上昇によって降雨量が減り干ばつなどの自然災害が起こると言う。地球の元に戻そうとする力が、また新たな異常気象を起こすことは間違いないようだ。

取るに足らない人類の力であっても、少しでも温暖化を遅らせて快適な地球環境をまもりたいものだ。

エコ

アップロードファイル 59-1.jpg

今年もラスト・クウォーターに入った。
例年になく参ったことは、急に寒くなってきたことだ。
お彼岸過ぎまで暑かったせいもあって、なおのこと寒さが強調されたのだろうが、あわてて冬物を用意した人もきっと多いと思う(私だけか?)。
寒いのが苦手な私などは、早くも朝晩ストーブを使っている始末だ。
そして、ストーブの温もりに厳しい冬を連想してしまい、憂鬱になっている日々である。
それにしても、穏やかな秋の準備期間なしに「いきなり」はないよなあ。

英国に端を発した産業革命は、その加速度的な広まりで地球環境を破壊し、地球を温暖化に導いた。このところの異常気象もその影響のようだ。
ということは、約250年かけて今の「異常気象」があるわけだ。
これは、そうとう気合を入れないと元には戻れない。

欧州では、市民の意識が高いようで、よくアイドリング・ストップやゴミ分別の厳しさが伝えられているが、もはや独国では洗車までもが決まった場所でしかできないらしい。
自分ちのガレージで洗車することなど許されないのだ。
早くもホンダは、今年からF1にアースカラーで参戦し、「環境」を欧州でアピールしているが、最近のプレタポルテでも「環境」をテーマにしたブランドが多くなっている。
産業革命を逸早く取り入れて世界をリードしてきた者の責任感なのだろうか、はたまた、そうした人々への企業の訴えかけなのだろうか?
やはり、先進国はすごい!ここでも率先垂範している。

翻って、わが国だが、京都議定書を提起、批准はしたものの、国民レベルの動きは鈍い。
駐車中のアイドリング、ゴミ分別のいい加減さ、洗車のし放題、、、。
国益(=自国益)を言っている間は、少なくとも先進国の仲間入りはできないのではないだろうか。
今日から厚着をして、ストーブを慎み、エコを心掛けるとしよう。

アカウンタビリティ

アップロードファイル 58-1.jpg

自民党の総裁選が始まった頃からか、国道4号線の工事が賑やかになったような気がする。
皆様のご近所ではいかがだろうか?
どうも、自民党は民主党が圧勝したのは「バラマキ・マニュフェスト」のせいだと思っている節がある。
いくら安倍総理の辞任劇があったにしても、今回のような官僚の間髪を入れない公共事業の再開は「癒着」そのものを見せ付けられているようで辛い。そこには「日本はどんなことがあろうとも変わらないんだよ」と言っている官僚の強かさが見え隠れする。
福田氏に代わって、このまま公共事業が増えてしまったら、元の木阿弥、カブを持ち上げ陽気にばら撒いた小渕氏時代となんら変わらない(それだけは避けたいものだが)。

なんの説明もせずに「お上に任せとけばいい」はずだった日本は、小泉氏によっていきなり「自己責任」の時代に入った。それでも説明責任を果たさない政治家や官僚たちはその期に及んでも口をつぐんでいた。何故、現在こう在るのか、本当のところ、おそらく誰も知らなかったのではなかろうか。
おかげで開いた格差は留まるところを知らない。まったく国民はいい面の皮だ。

だから、福田氏に限らず、国のリーダーに期待するところは、何をするにしても、「説明責任」だけは果たしてほしいということだけだ。説明責任を果たしてもらえば、いい知恵も浮かぶというものではないだろうか?

真の戦い

アップロードファイル 57-1.jpg

とにかく、安倍氏の辞任には驚きました。
辞任の間際までそれを匂わせないところなんか、小泉氏に劣らずかなりのポーカーフェースであったようだ。
無責任極まりない、との批判が多く見られるが、そこまで行き詰っていたのだろう、やはり安倍氏に“参謀”はいなかった。
そういえばの話だが、総理になる以前は「承知している」という言葉が耳についた。
最近では「職責を賭す」など発言して、“一般的ではない”姿勢を見て取ることができたわけだが、注意深く観察すれば、こうした端々に知恵袋の層の浅さを露呈していた。

しかし、世の中何が起こるかわからない時代になったものだ。
自民党の総裁選が始まり、てっきり麻生氏が総裁になるものと思っていたら、福田氏が立候補して、一気に流れが変わった。辞任劇から総裁選までのスピード感が「変化」を一層際立たせ、国民には強く印象付けている。
所詮、自民党内の親分選びなのだから、それこそ「粛々と」ことを進めればいいわけだが、マスコミが面白がって総理選びぐらいの大騒ぎをするものだから、民主党はすっかり置いてきぼりを食ってしまった(今回は総裁が自動的に総理になるのだが、自民党の内輪の選挙である以上、総理選びではないはずだから、、、)。
この騒ぎ様を見れば、小泉氏が今回のシナリオを書いたのではないだろうか?と疑いたくもなる。
でも、本当の総理選びは新しい総裁がどのように民主党と戦える土俵に上れるかにある。
なんといっても、いかにも自民党らしい自民党だった政治家は小沢氏なのだから、、、。

匠の話

アップロードファイル 56-1.jpg

本当に楽しそうに自分の仕事を語れる人は幸せだ。
たとえ、門外漢であっても聞き手に仕事の深みが伝わってくる。
自分の技術を常に向上させようとする飽くなき探究心、いや、「技術」と言うよりも買っていただく「お客様の喜ぶ顔を見るために」する工夫(=日々の精進)が言葉の端々に見えて頭の下がる思いだった(出来上がった“作品”を拝見してさらに確信したのだが、、、)。
「好きこそ物の上手なれ」とはよく言ったもので、「ものづくり」に携わる人たちの姿はまったく清々しい限りだ。
「ものづくり」は作り手をもつくるのかもしれない。

いまや、作り手と買い手の距離はどんどん離れ、お互い顔も知らない。
いちいち「もの」にこだわっていては面倒くさいのかもしれないが、作り手側も一人ひとりの顧客の顔を知ろうともしないで、ただ「売れればいい」だけで作っているようなものが多すぎやしまいか?
作れる個数に限りはあるが、“マーケティング”などという最大公約数的なものではない、直接お客のニーズを素直に読み取る力がそこにはある。

オーダーメイドはたしかに高いものが多いが、使い心地や耐久性は圧倒的に上回る。
何よりも、オーダーメイドのものが増えれば、ゴミになるものを減らせるのではないだろうか?

作り手を含めて、やはり本物の力は素晴らしい。

はだかの王様

アップロードファイル 55-1.jpg

それにしても、よく喋る男だ。
「姫のトラ退治」で一躍有名になった姫井参議院議員はスキャンダルとしてマスコミの餌食となっている。元高校教師が一方的に何を語ろうが、つまるところ、二人の話は当事者にしか分からないにも関わらずだ、、、。
マスコミは、いかに姫井氏が反論の記者会見を開かないとはいえ、こうした一方的な発言を報道してもいいものだろうか?
たとい、記者会見を瞬時に開く気がないにしても、姫井氏の子供たちはこれを見てどう思うだろうか?と思うと心が痛む。ましてや彼女は母親だ。
いかな公人とはいえ、あまりにも片手落ちの無節操な報道ではなかろうか?

昔は飲めそうもなかった安ワインを今は平気で飲める。むしろその行為こそに渇望する現実はある。たとい、そこに添加物が入っていようがいまいが、、、。
体の慣れに関係なく、渇きといういう事実の前にひれ伏すということは、どうゆう状況下にあっても本当のことではある。
そして、乾きこそが人の欲望を高めるが、そこには理性は存在しない。
しかし、それは人の本能の部分であって、今回の場合、マスコミという組織そのものに理性が働いていないのが問題だと思う。
そして、マスコミの一人ひとりに、そうした人権意識が無くなってきていることに絶望感を禁じえない。第四の権力であるマスコミにも、ブレーキが働かなくなったら、世の中相当危険な状況にあるのではなかろうか。

語弊をおそれずに申し上げれば、公人になると私人が無くなるという不思議な現象はあらゆる職種から有能な人材をなくすことになりかねない。
自分をさておき、人に“聖人君主”を求める風潮はいかがなものか?
日本国民は、「まずさ」を量るのに犯罪とスキャンダルを同列に並べてしまうレベルでしかないのか?ということを突きつけられているようで辛い。

スキャンダルの場合、黙して語らずという対処の仕方もあるはずだ。
昔、仏のミッテラン大統領は、記者団に外遊先での第二夫人の同行を訪ねられ、「それが何か問題でも?」と答えて、それ以降、記者からの“くだらない”質問が無くなった、という逸話がある。
姫井氏の圧倒的な支持者でもないのだが、今回、姫井氏には毅然とした対応を願うばかりです。

近況報告

アップロードファイル 54-1.jpg

さすが現代の車。新しいときには何事もなく、あっけないほど順調に走っていた我が家のローバーも8万kmを越えたあたりから、いろんな不具合が出はじめた。
まず、昨年夏(7年目)にはアイドリング状態でエアコンが利かなくなり、修理工場に恵まれなかったことも手伝って、かなりの時間、我慢を強いられてしまった。
涼しくなった10月の車検までには何とか修理なったが、ホッとしたのもつかの間、今年の4月には電動ファンがおかしくなり、オーバーヒート気味で冷や汗をかきながら5月の連休を過ごした。
運よく腕のいいメカニックに巡り合い、“直結”という手で最悪の状況は避けることができたが、いい気になって、久しぶりに盛岡遠征を敢行したら、今度は帰り道でトラクション・コントロールとABSのアラームランプが点きっぱなしになった。
それにしてもアラームランプは心臓に悪い。特に夜間は目を射るような明るさで、消えるまで慣れることはできなかった。せっかくの自動防眩ミラーも威力を発揮できない始末だ。
そんなことで、全くもってこの一年の早かったこと、、、。たった3つの故障で延べ40日以上は「代車」に乗っていた勘定だ。

今回、不運だったのは所有中にローバーというメーカーが無くなってしまったことにある。
そして、機械的なものならいざ知らず、どの不具合もコンピュータという厄介なものが関係していたから、ディーラーに行けばあるはずの“専用テスター”が使えない状況になってしまっていたことだった。
高いものを売りつけておいて、メーカーが無くなってしまったとはいえ、ディーラーも知らん振りはないだろうとも思っていたら、そのディーラーも今は潰れて無くなってしまっていては文句も言えない。
やむを得ず、数軒の町工場に修理を依頼しに行ったが、「もっと旧い車ならねー」とヘンな断られ方をしたのが面白かった(面白がっている場合ではないのだが、、、)。
どうも、ローバーに限らず、新しい車は専用のテスターがないと原因が掴めないらしい。
メーカーが修理までも他所に出せないようにする陰謀か?ますます電気製品化する自動車を相手にする町工場は、これから全メーカーの専用テスターを揃えなければ仕事にならないではないか
いかな腕の立つメカとはいえ、相手が電気で原因が掴めなくてはどうにもならない。
現代の車はテスターとのコネクターが付いていて専用テスターさえあれば一発で故障箇所がわかる仕組みになっているそうだ。
ああ、専用テスターよ!

そんなところに朗報が、、、。
犬も歩けば棒に当たるというもので、訪ねた町工場の一つが、欧州車のABSやトラクション・コントロールはほとんどボッシュという会社が開発していることを思い出させてくれた。ボッシュの特約店にいけば何とかなるかも、、、。
果たして予想は的中し、アラームランプの原因は単なるクルーズコントロールの断線にあることがわかった。「なーんだ」。
メーカーが無くなっても、部品供給が豊富な英国車であれば、そしてボッシュのテスターを使えばまだしばらくは乗れる。こうして、一年来の不安はやっと解消したのだった。

籠の鳥

アップロードファイル 53-1.jpg

昨日は朝から“組閣”話で賑やかだった。
選挙で敗北した内閣をはたして蘇生できるのだろうかということが、注目されていたようだが、安倍氏が居残ることを前提とした奇妙な議論が続いていた。
今度の選挙の責任者はいったい誰だったのだろう?と改めて思う。
地域格差は反省されたのだろうか?賃金格差は本気で是正されるのだろうか?弁のたつ厚労相は年金問題を解決できるのだろうか?
「?」は多いが、これも当の安倍氏のまわりの疑問であって、安倍氏自信がどう変わるのかは明言されていない。
いつの間にか、今回の敗北は「自民党に対してのNO」ではなくて、「お灸を据えただけ」ということになってしまったようだが、それでは国民は愚弄されっぱなしということになる。
組閣後の会見でも、自称「美しい国」を出して具体性が見えないところをみると「やっぱ、変われないな~」という思いがしてならない。
安倍氏はよく「空気が読めない首相」と揶揄されるが、永田町の空気ばかり見ているから、ますます国民からは乖離する。新たな内閣のように重厚な壁をつくればなおさらだ。
首相はしきりに「実績」ばかりを気にするが、あまり「強者の論理」を振り回すと、弱者の多くなってしまった国民の空気が読めなくなるのは自明のことなのかもしれない。
今は、自ら籠に入って国民から目をそらせることだけはしないでほしいと願うばかりだ。

文化遺産

アップロードファイル 52-1.jpg

中学生の頃だったか、父が形見分けで“本家”から刀を貰ってきた。
貰ってきたときに一度だけ抜かせてもらったが、鋭い光を放ち「これが真剣というものなのか」と思ったものである。
それ以来二度と触ることもなかったが、一年ほど前に父の部屋を整理していたら、この刀に遭遇した。
その後一年、神棚に置いておいたが、最近になって「どんな刀なんだろう」って気持ちが湧き上がり、宇都宮でお世話になっている武道具屋さんに相談してみたら、早速、父と同じ年頃の鑑定をしてくださる方を紹介された。
ちょっとした「鑑定団」気分で“達人”にお目にかかると、果たして「本物」ということだった。
はて、困った。
本物ということは鎌倉時代に作られた刀ではないか。
ご先祖様がどこでどういう経路でこの刀と巡り合って手に入れたものかは知らないが、6世紀も経て存在するということは、もはや個人の所有を超えている。だいいち、私は刀に全く興味がないし、手入れの仕方すら知らない。
瞬時に「これは私が持つべきものではないか」という意識が頭を過ぎった。

先日、親戚の新盆の帰りに天童市の友人宅を訪れた。
仕事で成功した彼が所有していたベンツ300SL(通称ガルウィング、石原裕次郎の乗っていたアレである)を、久しぶりに見せていただくためだったが、果たしてガルウィングはもう彼の手元にはなかった。
このところの地域格差は凄まじいもので、彼にガルウィングの所有を許さなかったらしい。
常々「ウチにあるものは、すべて預かりもの」と言っていた彼だが、アメリカに嫁いだガルウィングの話になるとさすがに寂しそうではあった。
無理をすれば置いておけたかもしれないが、ガルウィングほどの名品を維持するとなれば、中途半端なことはできないと思ったのかもしれない。「預かりもの」と言う言葉の中にそれが読み取れてむしろ清々しかった。実は、自分の手を離れて心中ほっとしているのではないだろうか。

バブル時代に集まった文化遺産は、バブルの終わりと同時に海外に流出しているそうだ。
それは自国のものであろうが、他国から買い集めたものであろうが、最近のニューエイジの金持層に古いものは受けが悪いらしい。この国の多数決による「分かりやすい」という文化は何の歴史的な解読もないまま葬られつつあるのかもしれない。
たしかに、ガルウィングより最新のマクラ―レン・メルセデスのほうが分かりやすいし、刀よりもルイヴィトンが理解しやすい。
いずれにしても、ものの上代のみが、文化を押し殺しているようで不気味だ。
そんなことを考えると、文化遺産は海外に渡ったほうが幸せなのかもしれない。

話は戻って、今、家にある刀だが、博物館にでも預かってもらうしかないのだろう。

正当な権力者

アップロードファイル 51-1.jpg

大和朝廷時代、軍事を司っていた物部(もののべの)守屋は廃仏戦争によって曽我の馬子らによって滅ぼされた。
いつの世でも、官僚(=真の権力者)を更迭するには相当の力が要るらしい。

お盆を挟んで小池防衛相と守屋事務次官のやりとりが表立って報道されたとき、この物部守屋の話を思い出した(ひょっとして、守屋氏はあの守屋の子孫?まさかっ!)。
いずれにしても、田中真紀子氏以来の事務方更迭劇は、またこの国の大臣に自分の省に対する人事権がないことを露呈した。
この一点を見ても、各省庁は選挙を経ていない官僚のコントロール下にあるのは確かだし、真の権力者はその官僚(とその頂点に立つ事務次官)にあることを意味している。いつまでも談合や天下りの問題が解決しないのも、根っこはこの官僚システムにあるのではないだろうか。
防衛省は一体誰のものなのか?=いったい誰のための選挙なのか?
官僚システムが今のままでは、政権交代しても日本の変革はなしえないと思う。政治に対する不信や出口の見えない絶望感の根源は“憲法”などにあるのではなく、隠匿などの卑劣な手を使って生き延びてきた日本の官僚システムにあるのではなかろうか?
日本が真の民主主義を目指すのなら、明治以来連綿と続く官僚システムの刷新しかないと思う。
安倍首相は、大統領制並みに(権力のない)首相補佐官をおくくらいなら、真の実力者である事務次官の任命権を大臣に置くこと(民間からの登用も含めて)を最優先すべきであろう。
政治のリーダーシップによって省庁をコントロール下に置ける政権が望まれる。

秋の到来

アップロードファイル 50-1.jpg

夕べ8時頃帰宅したときに、玄関先で鈴虫の音が聞こえた。
昼間の暑さを忘れて立ち止まり、夏休みで遊びに来ている姪を呼んで、暫く一緒に聞き入った。
もう、秋だ。
今朝起きてみると、相変わらず日差しは強いが、昨日までの逃げ場のない暑さとはうって変わって、庭の草木がゆれている。心なしか、風も涼しげで、気持ちがいい。
このところ、動物達は木陰を求めて暑さをしのいでいたが、ついに小さな虫たちは秋の到来をつげに来たのだった。
日々の営みとは無関係に自然は時を刻んでいる。その変化に気がつけば(その変化に参加できるわけでもないのだが)、一体感が沸いてきて、なぜかうれしくなった。

266人の国民

アップロードファイル 49-1.jpg

首相はなにかというと「専門家の意見を聞いて」と言うが、自らが現場に出ずして果たして適切な判断ができるのだろうか?といつも思っていた。
今回も、広島と長崎の被爆者との面談では「認定のあり方について、専門家の判断をもとに見直しを検討させたい」と話している。
だが、その言葉とは裏腹に、10日にでた熊本地裁の「病気と放射線の因果関係」を認めた判決に、国は即刻、控訴した。
当然、言行の不一致に批判は集まるが、首相と厚労相は「裁判と認定基準の見直しは別」と言ってはばからない。
では、誰が新しい“基準”を決めるのか、どういう方向で?
判断をできる立場の人が、控訴をかんたんに了解してしまう行為は、国民を第一に考えているように思えないのは私だけだろうか?
だいいち、菅氏や坂口氏が厚生相の時代には薬害エイズやハンセン病の患者が当時の内閣の手によって救われたではないか。

現在、原爆症認定訴訟の原告は266人もいて、15地裁5高裁で争われている。
国は今回までに6連敗し、いずれも控訴しているそうだ。
戦後60年以上経っても、認定基準が現実と乖離していると思うと胸が痛む。
戦後体制からの脱却を謳う首相にしてはお粗末な話だし、諮問委員会ゴッコで高齢になる原告の人達をさらに一年も待たせる気持ちが分からない。
この266人を守れないようでは美しい国は訪れない、と思う。

今のわがまま

アップロードファイル 48-1.jpg

それにしても、連日「暑い」。
駐車場ではエンジンかけっぱなしの車が暑さを加速する。
涼しいときには、地球温暖化が問題視され、アイドリング・ストップまで叫ばれていたのに、だ。
気持ちはわかるが、「車に戻ったとき快適に運転したい」という思いが、温暖化を助長しているのは確かだ。
どうも人の欲は危機感あふれる自制心をも上回るようで、大袈裟なようだが「暑い=クーラーなしでは生きていけない」という固定観念は、今、何ものをも凌駕している。
ひと月も経てばまた涼しい日が来るのだから、病気の人はともかく、スーパーや銀行の駐車場での“ぱなし”は止めてほしいものだ。

非核の礎

アップロードファイル 47-1.gif

今日は広島の日。
当日も今日のように暑かったそうだ。
米国軍による原爆を使った無差別殺戮は想像を絶するものだったろうが、戦後62年経った今でも、被爆した人たちの0.8%しか補償されていない現実も過酷なものだと思う。
この時期になるとマスコミでは特集が組まれるが、被爆の悲惨さもさることながら、その後の国の対応も被爆者に追い討ちをかけているようで辛い。
被爆体験者も高齢になり、国が控訴し続けるかぎりなし崩し的に「期限」がくる可能性が大きくなってきた。
国の責任者である安倍氏は「裁判とは別に、、、」などと言っておらず、敗訴している地裁の判決を早急に受け入れるべきではないか。
被爆者を保護する姿勢が、日本が非核を世界に訴えていく礎ではないかと思う。

2007年参議院選挙

アップロードファイル 46-1.jpg

小泉前首相は約束どおり「自民党をぶっ壊した」。
満足なのか、あまり画面には姿を現さない。
もはや、自民党は敗戦処理を含めて瀕死の重傷だ。
この事態に、「国民がお灸を据えたのだ」という見方が強いが、こういう言い方は自民党が本来の「与党」であることを前提としての意見だろうし、小沢氏の過去の言行が嫌われている裏返しでもあるのではないだろうか。
確かに、政権をとることが第一歩としても、その暁にどんな社会が訪れるのか分からないところが民主党の弱みでもあるのだが。

国政選挙を経るたびに思うことは、範としている(といわれている)米国の二大政党制が我国の立法府に向いているのかどうかということだ。
米国ばかり見ていると、二大政党制は政治にとって一番優れたシステムだと理解されがちだが、欧州ではいまだに多党制が主流だ。
彼の地では、複雑になっている社会に対応するため、多様な意見をより反映する制度を選択しているものと想像する。

では、多党制が優れているかといわれれば、二大政党制とはいっても、米国では議員各個が自分の意見に近いほうの政党に属してはいるが、各論では自分の方針に従って行動しているのが現状で、システムの問題ではなく、民主主義の歴史のある国々は、いづれも“個人主義”がキーワードのようだ。

“党議党則”にがんじがらめの我が国会議員諸氏とは明らかに事情が違うが、我国の二大政党制は民主主義の大事な原点である「少数意見をくみ上げる」余地がなくなってしまうのではないかと心配している。厳しい言い方をすれば、形だけ模して別物が出来上がってしまう可能性が高いのではないだろうか。
二大政党を目指すのならば、議員はまず「自党ありき」ではなく、個人の考えを前面にすべきだと思う。

こうした中で、国民新党や新党日本などの新党が議席をとったことは、政界再編の動きにつながることを予感させる。
今回の選挙は大政党の勝敗の影に、わずかではあるが、少数弱者の意見も反映されていることを忘れてはならないと思う。

アップロードファイル 45-1.jpg

新しい仕事を始めた友人は、入社まもなく、その道の先輩たちから積極性を問われている。
まじめな性格の彼は「知人に無理強いしてもいいものだろうか?」と悩んでいた。
どうも会社からは「決め」の一言を要求されているようで、再三の営業指導にも関わらず、“弱腰”の友人に対して、先日、先輩たちはついに“同行”という行為に出たらしい。
友人は、顧客となるべき知人と自身の関係にハラハラしながら、客先での先輩たちの口の滑らかさには圧倒されたと言う。そして、自分の不甲斐なさに落ち込み、また、奮起しようとしているようでもあった。
私は、そんな彼のそんな人柄が大好きなのだが、会社が思っているような結果を直に出せないでいることくらいで、彼の性格が変わってしまうことを心配した。(もっとも、「こんなことぐらいで変わりはしない、その証拠に彼は悩んでいるではないか」という思いも強かったのだが、、、。)

最近は「結果」を急ぐ会社が多くなった。
もちろん、会社は営利目的ではあるのだが、目的とする“営利”のために時間をかけなくなってきている。機械語に始まった「効率」が悪いからだ。
世の中、世知辛くなったものだ。
政府の言う好景気が一般的にならないのは、この「効率」流行りとその固定概念のせいでもあると思う。
だが、組織やシステムがいくら効率を追求していても、それを成している「個」はまったく効率的ではないことは見落とされがちである。
非効率な「個」に対して、「個」の市場(友人、知人)だけを見て直接関わる彼に効率を求めても、所詮、上っ面の数字にしかなり得ないと思う。
そんな悠長なことを言っていたら、「会社は負け組になってしまう」という論理もあるのだろうが、ブランドや職人が育たない企業風土になってしまっては、真の「勝ち組」にはなりえないのではないだろうか。

友人の話に戻って、自分のところで育てた社員はほとんどいなくて、中途で入れた社員の縁故知人に頼るところは、昔の生保を思い出して辛くなった。
即戦力として、その会社に入った彼ではあるが(即戦力でない社員はいないと思うが)、どこかで育ったものを持ってきて速攻で結果を出したとしても、その会社の本当の実力かどうか分かったものではない(現にその会社の離職率は高いそうだ)。
販売会社が成木ばかり買って、苗を意識しないのでは、その会社は組織としての成長はどこにあるのであろうか?

友人と話していて「無農薬野菜」という言葉を思い出した。
効率が叫ばれている半面、農業の世界では非効率な無農薬野菜が売れている事実も見逃せない。
無農薬野菜は時間がかかるそうだから、会社に望みたいのは無農薬で育った友人に、少し待つ優しさを持ってほしいということだ。
彼は、まだその業界では“苗”なのだ。

そんなことを考えながら、友人の相談に対して、「その会社との関わりをとおして、変化していく自分を楽しめば?」などと、あまり具体的な助言もできなかったのだが、結局、寄り添って話を聞くことだけしかできなかった私だった。
これじゃあ、彼にとって会社は“修行の場”っていうこと?