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関心事

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最近、後期高齢者医療保険の話に絡めて出てくる「消費税増税」の話題が気になる。
日本国の消費税は医療・福祉・公教育・不動産賃貸など以外に“物品税”に近い形で課税されているから、いきおい国民の関心も高くなる。
国の借金が800兆円とも言われるわが国の財政で増税は仕方ないことかもしれないが、「いったい誰のせいで800兆円もの負債を国民が背負うことになったの?」という話が加わるから、“公務員の無駄使い”の話が喧しくなるのも頷ける。
要は「無駄使いを無くした上で増税の話をするのがスジだろう」というのが一般の論調のようだ。
そんな状況で、今年も税収が50兆円しか見込めないのに80兆円を超える予算が成立してしまうのだから、このままではますます国の負債は増えてしまうだろう。
ここらで、何とかしなくては、、、。

税制の抜本的カイカクを目論む政府は、秋の国会で新しい税制を決めようとしているが、本当に税制カイカクだけでいいのだろうか?
官僚システムが充分に見直されていない状況では、単に数字だけの意味のないものになってしまう可能性が大きいのではないだろうか?
税制もシステムだが、それを動かしているのは官僚だ。「官僚の、官僚による、官僚のためのカイカク」だけは避けたいものだ。
洞爺湖サミットや北京オリンピックにウツツを抜かしていると、またもや官僚にしてやられてしまう。
税金と言うと、どうしても税率の話しになりがちだが、徴収されるばかりが税金ではない。
使い道と、そのシステムをカイカクしなければ、演歌じゃないが「いつまでたっても駄目な私ねぇ~」になってしまう。

一歩、一歩

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なにかと批判の多かった「後期高齢者医療保険制度」だが、やっと政府・与党も“どのように”見直すか検討作業を始めるようだ。
これは、当初政府が説明していたような「事前説明不十分」などという単純な問題ではなく、実際は根幹から細部にいたるまで大いに問題をはらんだ見切り発車だったことを政府・与党自らが認めたことを意味する。
それでは、ここでその制度を一旦白紙に戻して、最初からやり直しということにするのかと思っていたら、やっぱり福田氏はそこまで思い切りが良くないようで、また問題を抱えたまま(とりあえず)継続しながら是正していくという道を選んでしまった。簡単に(?)始まった制度とはいえ、制度を止めるには相当なパワーが必要なのだろう。
実際のところ、今回の“検討”で焦点となっているのは、①低所得者の保険料負担、②年金からの保険料天引きの見直し、③自治体が独自に実施していた人間ドックなどの助成事業の復活だけなのだから、抜本的な見直しとまではいかない模様だ。
こうした構想のない場当たり的な対応策は、最近の日銀総裁人事や道路特定財源にも現れていて、安倍氏以来の政治の行き詰まりを見せられている。

しかし、最近はこうした“行き詰まり感”も悪いことばかりではないと思っている。こうした状況が国民にも見えるようになったのはめでたいことで、官主導の日本国のシステムがもう立ち行かないところまで来ていることの現われでもあるからだ。
刷り込みによって“異論”や“ねじれ”を極端に嫌う国民性(?)ではあるが、今回は“均一”という殻を打ち破るいい機会ではないかと思っている。
均一でないことは決して「悪」ではない。国民一人ひとりが異論を嫌うのではなく、どんな意見に対しても素直に耳を傾ける時であろう。こうした状況では少数意見であっても選択肢の一つになり得ることもあるのだから、、、。
そして、異論を聞かないで改革路線を突っ走ったと思われているあの小泉氏でさえ、結果的に官僚政治を擁護してしまったのだから、、、。

政局を問え

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「歳入不足が継続するという無責任な状況を避ける」と言う政府の身勝手な論拠により、ガソリンは値上げされた。
政府自身の無駄使いを放置して暫定税率を恒常化させようとする自民党には怒りを覚える。
来年度から「一般財源化する」という口約束など当てにはならないし、閣議決定したところで同じことだと思う。おそらく、そのころには内閣は変わっているだろうし、今回の痛みはみんな忘れてしまうからだ。
決まったことは暫定税率が10年間延長されたという事実だけで、「使い道など何とでもなる」と“道路族”がほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。

「即日値上げはないだろう」と判断していた町村官房長官の目論見はもろくも崩れて、この辺でも昨日は軒並みレギュラー155円の表示がスタンドに並んだ。
あらゆる原料が高騰し、物価が上がっているところに拍車が掛かることは必死だ(その上、灯油まで値上がりした!!)。
もはやゴールデンウィークに遠出ができないどころの話ではない。
後期高齢者医療保険も手伝ってお年寄りの生活は想像するだに恐ろしい。
民主党を「一々政局に持ち込んでいる」と非難するばかりでなく、今こそ国民に政局を問うべきときではないか?
今、暫定税率延長や後期高齢者医療保険の問題は単なる一つの法律ではなく、国民生活に直接影響する物価高の根幹ではないか。
充分、政局に値する問題だと思う。

“外部留保”

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国土交通省の改革本部は道路財源を使って業務を発注していた同省所管の公益法人数を50から7割減らして16法人とすることを柱とした最終報告書を決定した。(朝日新聞18日)
公益法人とは、字のごとく「公益」を目的として設立された財団法人または社団法人のことだが、天下り問題などの現実を見れば、営利を目的としない法人とは、本当は「利益を外に出さない法人」だったことがわかる。
国土交通省だけで50もの公益法人があったことにも驚くが、公益法人では税金の優遇措置はもちろん、莫大な補助金まで受けているのだから、道路特定財源2兆6000億円の内いくらが本当に道路をつくる財源となっていたかについては大いに疑問が残る。
高額な社員旅行やマッサージチェアーくらいは序の口で、国土交通省の外部留保はすさまじいものだったに違いない。

今回、冬柴国交大臣が「公益法人の7割を非公益法人にする」と発表しているが、「国土交通省関連の公益法人の存在をまったく無くす」と言っているわけではないので安心はできない。これらの法人は名前を変えて生き残り、国交省との癒着体制が根本的に改善されるとは到底思えないからだ。
かえって、公益法人では問題になっている無駄遣いも“民営化”されてしまえば、ますます水面下に隠れるのは必死だと思う。

しかも、国土交通省は特殊技術やデータ量などの“社会的”必要性を説いてこれら法人との関係を続けるつもりだろうから、民営化されたところで直ぐに“自由競争”化されるとはかぎらない。“本物の民間会社”にビジネス・チャンスが訪れるのは、ずいぶん先のこととなるだろう。
しかも、昨日付けで発表されている削減案は小手先の数字でしかない。
彼らの言う民営化とは、即自由競争になることではないのだ。
甘い預金先はそう簡単に捨て切れるものじゃないはず…。

ほころび

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厚生労働省の“ほころび”は留まることを知らない。
宙に浮いた年金に始まり、医療システムや健康保険制度の改定、今回の後期高齢者医療保険に至っては「人手が何人あっても足りないでしょう?」と皮肉の一つも言いたくなる始末だ。
だいたい、75歳以上の年金暮らしのお年寄りから保険料を天引きするなど良識ある人の考えることではないと思う。年金は自助努力によって得られる収入ではないのに、“応分の負担”を弱者に求めるのはオカシイからだ。
事務手続きのお粗末さを見ても、厚生労働省というシステムでは取り繕いがつかないところまできていることが窺える。
もはや厚生労働大臣の“約束”をまともに聞く年金世代の国民はいないはずだ。

ガソリンの暫定税率期限切れで国土交通省の役人を含めて“道路族”は必死だが、数十年も前に計画されていた道路を時代(少子化という時流)が変わっているのに今さら“計画的に”推し進めようとする姿は国民を愚弄しているとしか思えない。
過去の省庁再編は名ばかりで、実態は何も変わっていなかったことが良くわかる。おそらく“一般財源化”も隠れ蓑であろう。
特殊法人に流れている年間12兆円を思えば、先の医療費や暫定税率の問題など予算の立て方がオカシイということではないか。

国政には富の再分配という側面があるが、日本国政府は大きなところで省庁への分配にしか興味を示していないようだ。各省の調整に終始しているからだ。
これでは「国土の均衡ある発展」ではなく、「国政の均衡ある発展」ではないか。そう遠からず人口は激減するというのに、“予算”ばかりこだわって「使い切らなくては・・・」または「減らされては困る」という既得権益死守の姿勢が窺えるのは、コクエキではなく実は省益優先に他ならない。
この期に及んで、おそらく優先順位NO1である“人口減少”に有効な施策を打出さず、小手先の問題に終始している姿はとてもエリート官僚の仕業とは思えない。TVを見るたび「日本をつぶす気か!」と思う。
天下国家を語れる指導者もおらず、ともかく、日本の行政の動きは鈍い。
日本の官僚システムは急速に変化する社会情勢に対応できないとして、既に外国人投資家は日本離れを起こしている。

官僚がシステムを維持しようとする力は“ねじれ国会”のおかげで、急速に弱まりつつある。情報公開によって、「知らしむべからず」体制は崩壊しつつあり、国民にも官僚の実態が薄っすらとはいえ見えてきた。
いまこそ、少子化時代に適応する真の行政の再編がまず望まれる。

暫定税率終了!

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34年間も続いた暫定税率が昨日終わった。
「暫定」が恒常的になっていることこそおかしな話なのに、「例年どおり」が一番のわが国政府はマスコミを絡めて「混乱するぞ!」の大合唱だった。
ガソリンスタンドからの中継などは、まるで台風中継のようで可笑しい。
今回の件は自然災害ではないのに、波風を嫌う風潮は国民性ゆえのことなのだろうか?

無駄な支出が明らかになっても、政府はなおその見直し策を具体化しないまま道路特定財源にこだわった。
年間12兆円を超える随意契約を抱えながら、年間2兆6000億円の財源が失われることが公共サービスの低下を招くと訴えるとは本末転倒のような気がする。
ましてや、使い道を一般財源化することや環境問題を絡める話などで誤魔化してもらってはこまる。
今月末には、政府与党は暫定税率延期を強行採決するかまえだが、暫定税率終了がエープリルフールで終わってほしくない雪の4月1日です。

官僚システム

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なんのことはない、あれだけ大騒ぎして空席となった日銀総裁は、副総裁の白川氏が代行することになった。こんなことなら、はじめから白川氏を総裁に指名しておけばよかったのかもしれない(ご本人が断るかもしれないが)。
おかげで福田首相の面目は丸つぶれになり、それこそ日銀総裁の不在よりも「世界経済に与える影響」は大きかったように思える。
世界や日本経済の不確定要因のひとつは間違いなく日本の政治の混乱があげられるであろう。それは、「ねじれ国会」などという単純なものではなく、官僚システムによる政治支配という意味でのことだ。
「人間を幸福にしない日本というシステム」(1994年、毎日新聞社)でウォルフレン氏が指摘した官僚システムは十余年を経ても何ら変革されていなのが現状だ。
時代の流れによって変革を迫られれば、「段階を踏んで」システム全体が変わらない方向で変化してきた。それは、日本の政治の中で最強の影響力といわれている外圧によっても変わることなく、あらゆる権力を行使しながら「目くらまし」を続けてきたわけだ。
たとえば「天下り」問題で、「優秀な人材を集めるためには退職後の報酬は必要だ」などという馬鹿な論議がマスコミで踊るのは官僚にそそのかされた学者のセンセイ方が天下り(=官僚システムの根幹?)を擁護するために考え出した方便でしかない。
だいたい現代の優秀な若者たちが数十年先の報酬を目当てに官僚を目指すだろうか?それこそ気味の悪い組織ではないか。
私腹を肥やすことに専念する集団がこの国の中核であることにこの国の悲劇があることを忘れてはならないと思う。

春眠

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3月になって、ずいぶん空気が緩んできた。朝晩はまだ冷え込むが、今日は13℃にまで上がるらしい。
以前、「春眠暁を覚えず」とは冬場に疲れた体を労わる生理現象だ、と父の主治医の先生はおっしゃっていた。寒いと体は緊張しているらしい、どうりで眠いわけだ。

今年の冬は、友人のところの社有車であるひとつ前のスズキ・スイフト(4WD)をしばらくお借りしていた。
900kgそこそこの軽量ボディは私の好みとするところではあったが、サスペンションのツメが甘いせいか、ショートホイールベースの悪癖が前面に出ていて、けっして運転が楽しい車ではなかった。
危険と思われるほど横風の影響を受けやすく、ピッチングが不快でとてもとばす気にはなれない。そして、ギア比が不適切(おそらく同社の軽自動車のものを流用しているのだろう)なのは、「無借金経営のスズキ」ということを思い知らされたものだ。
せっかくの1300ccのエンジンが死んでいて、作りこみに中途半端な印象が否めない。
ラリーで活躍していた同型車とは対極(?)にあり、これなら、ベース車両となったKeiで充分とも思える。
シートヒーター(今年の冬はありがたかったが)などの便利装備をつける前にベーシックカーとしてやるべきことがいっぱいあるのではないかと思わせる車であった。
冬場の疲れはこのせい?

シートベルト

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コンプライアンスの徹底に熱心な友人の会社では、ノー残業デイを全社的に浸透させるため、「その日」に残業する場合は事前に人事部長に申請して一々サインをもらう事をルールとした。
はたして、申請の第一号はこのルールを決定したコンプライアンス担当部署の人だったと友人は笑う。
まったく、結果や効果だけを求めて盲目的に作られたルールは、笑えない現実との乖離をますます強め、加速度的に悲しい話を生み出しているように思う。

コンプライアンスといえば、「人を縛る」という点でシートベルトに似ている。その言葉を聞くと、シートベルト装着が罰則付きで義務化されたときのことを思い出すのはこのためか?(1985年ころだったからもう20年以上も前になる。)
シートベルトそのものは1960年代から存在していたが、世界に先駆けたわが国の装着義務は少なからずのインパクトがあった。国が個人の安全に口を出し、したくない人のしない自由までも奪うことになるからだ(この時点でドライビングの自由は人為的に侵害され始めたと思う)。

搭乗者の死亡率を下げることを「錦の御旗」に始まったシートベルトの装着義務だが、その装着率の急激な上昇とは裏腹に、死亡率の減少は遅々として進まず、交通事故死亡率の明らかな改善をみるのは、エアバックや安全ボディなど他の安全装置の普及を待たなければならなかった。
つまり、シートベルト装着のみの安全性はいまだに解決されていないことになる。
あの時の義務化は一体何だったのだろう?

コンプライアンスは、シートベルトのようなもので、これだけでは(搭乗者の)安全は保たれないと思う。
そこにはまず的確な運転姿勢が求められるし、他の安全装置と相俟ってはじめて効果を成すはずだ。
それに、法令を遵守したところで予期せぬことは常に起こる(予期したところで、人の知恵などたかが知れているわけだが)。
つまり、受動安全装置に頼ることなく、能動的に安全運転を心がけることが大切なのだ。
昨今のコンプライアンスに違和感を覚えるのは、こうした受動安全システムに積極的に取り組んでいる姿が、シートベルト装着義務に地道をあげていた虚しいあの頃に似ているからなのかもしれない。

座禅はスポーツ・ドライビング

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三春福聚寺の座禅会に参加していつも感じることは「座禅」はスポーツ・ドライビングにとてもよく似ているということだ。 玄侑宗久師のお話を聞くたびに、以前ツインリンクもてぎで習った「滑らかな運転」を思い出す。

もてぎで、私は車に負荷をかけない滑らかな運転こそが、スポーツ・ドライビングの極意であることを学んだ。
一般的にはタイヤを軋ませながら走る姿がより早く走れるように思われがちだが、さにあらず、できるだけスムーズに走ることがサーキットでより速く走るコツなのだ。だから、コーナー手前のブレーキこそぎりぎりまで待って思い切りよく踏むが、アクセルワークには絹のような繊細さが求められる。ハンドリングでウィニング・ラインがあるのもこのためだ。
車のスムーズな挙動を意識して運転するようになったのはこのときからだ。

「禅的生活とは言い換えれば、予断を持たずに今の足場に立つということで、予断を持つから苦しみが生まれる。」ということになる。先のことは思い煩う無かれ、だ。
「予定通りにいかないのが人生だが、先のことは分からないから面白い。そこに人生の妙味がある」と、和尚は言う。「想定外のことが起こると誰しも心が揺らぎますが、この揺らぎを昔の人は『風流』と呼んだ。揺らぎを楽しめる人こそ風流な人なのです。そういう心構えなら、困難があっても何とかなる。」

ひとりでサーキットを走る場合は、ウィング・ラインを定石どおり走ればタイムは出せるが、レースとなればそうはいかない。ウィニング・ラインを思うようにたどれなくなるからだ。
レースとはそういう意味で人生に似ている。
心のスタビリティーを意識して人生をあゆむ。だから「座禅」はおもしろい。

雪の日にはドライブ

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わが地方では、夕べまた雪が降った。
景色を一変する雪はむしろ好きなのだが、雪の話になると、最近は雪ぎらいの方が多いようで困る。
「雪が好き」と言い出すと、相手の表情のなかにこの人変わっているという表情が見えることしきり。
だが、雪は雨と違い、ゆっくりと地面に水分を浸透させ、待つ優しさがあるようで好きなのだ。
それに、実を言うと雪道の運転は本当に楽しい。
これまた、眉を顰められそうだが、車は雪上でその自出の性格を素直に見せてくれる。しかも低スピードで安全に・・・。
トラクションコントロールがついていようが、ABSがついていようが、雪道では本来の素性は隠せない。車の良し悪しがはっきり分かるのは雪道しかありえないとすら思っている。

ドディオンアクスル(デフとミッションを一体化してリアに配することによってFR車の重量配分を50:50にするシステム)を有する80年代のアルファロメオは本当に雪道に強い。バランス感覚に優れているのだ。最近は老体をいたわって我が家のGTV6を雪上に持ち出すことまではしないが、シオを撒かれる以前はむしろ好んでよく出かけたものだった。
もちろん、トラクションコントロールもABSも無い時代だったが、アクセルやブレーキを通して伝わるドディオン…というシステムのバランスの素晴らしさに感銘を受けたものだ。なにしろ、路面状況にかかわらず、真直ぐに止まり、真直ぐに走るのだ!北陸道では、同走の車を尻目に雪道でも常に100km/h以上で走っていたくらいだ。

シトロエンを通じて知ったFFシステムの素晴らしさも忘れない。実家の雪かき(=圧雪)は常に彼の仕事だったし、車高を上げられるハイドロニューマチックという機能は4駆以上の力を発揮したものだった。もちろん、雪山道の踏破性も優れていた。
この季節になると、FRだろうが、FFだろうが、あるいは4駆だろうが、「車は性能数値ではなく、バランスだ」という思いがわきあがる。つまるところ、車の良し悪しはバランスなのだ。

「犬は喜び庭かけまわる」の歌どおり、わが子も雪に打付してジャレている。雪が嬉しいのだ。
子供のように、用も無いのにドライブに出かける姿に呆れ顔の妻の顔が印象的な冬であった。

GTR的日本

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介護保険料を払っているお年寄りが、収入が少ないために介護費用の一割を負担できずに介護を受けられない国、日本。
救急車は、行き先の病院を見つけられずによく何時間も立ち往生するし、産科医、小児科医も激減した。少子化こそが根底の問題であったはずなのに、だ。
何のビジョンもなしに始まってしまった“改革”は国を混乱させている。
一大事にもかかわらず、一方では学力の低下を憂いているマスメディア。
「こんなはずじゃあなかった」と思っている向きも多いはずだ。

そんなことを考えながら、通りかかったディーラーにニッサンGTRを見かけた。
元来、車好きの私は迷いもなく踵を返してショールームに立ち寄った。
1.8tを超える立派な体躯は予想通りだったが、車高はもちろん(ルーフの低さでごまかしてはいるが)、着座位置の高いことには驚いた。
展示状態だが、スポーティーのかけらも感じられない。
ディーラー氏によれば、「これはスポーツカーではなく、スーパーカーだ」ということなのだが、車内外のデザイン自体にも躍動感が見られず、只ただ重厚感だけが残る。
重厚感とはいっても、従来のスーパーカーたる、ランボルギーニやマゼラッティのものとはまったく違うのが残念だ。どこがスーパーカーなのだろう?ワクワクしないじゃない。
初代、GTR(スカイライン)は「羊の皮を被った狼」だった。
「速い」というスペックは普通のスカイラインと同じデザインの中で生きて、その普通さが却って乗り出す前の期待度を180%まで高めた。
今や、新型GTRはレーシングカー並みの現実離れしたスペックを誇示するが、「ガンダムの皮を被った狼」では食指をそそわれない。どんな状況でも使えるのは“スーパー”なのか?
「買い物にも使えるスポーツカー」といえば20年近く前のホンダNSXが筆頭だが、やはり国産品だった。発想が陳腐というか車に対しての文化程度が低いというか、、、。
スーパーカーと言いつつも、「そつはないが、取柄もない」では、「スーパー」があり得ない日本という国の現状をよく表した車ではあったと思う。

如月

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はやいもので、今年も12分の一が過ぎてしまった。

 二月といえば、今年は閏年で29日まである。
 しかし、他の月は30や31日あるのに、何故2月だけ日数が少ないのか?この月がくると常々疑問に思っていた。
 調べてみると、二月が短くなってしまったのは、皇帝アウグストゥス(Augustus)が強引に自分の名前を冠した8月(August)の日数を30日から31日に変更してしまったからだという。ローマ時代には年初が3月だったそうで、彼は不足した日数を単純に年末の2月で調整してしまったようだ。皇帝の力、恐るべし。

 日本では、二月は如月(きさらぎ)と呼ばれる。
「衣(きぬ)を更に着る月」という解釈もあるようで、まだまだ寒い時期が続く。
 皆様、十分ご自愛を。

賀正

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新年、明けましておめでとうございます。

元旦は三春の福聚寺で座禅を組んできた。
座禅会のときに、玄侑宗久師から途中で(本堂の)窓をすべて開け放つとは聞いてはいたが、窓のそばにいた私は(痛くて)足が動かず、失礼なことになってしまったが、背面泳ぎの姿勢でご本尊正面の障子戸を開けることと相成った。
おかげで、せっかくの本堂からの雪景色を見ることができなかったが、冷気で、その景色の気配は感じることができた。

深々と降る雪の中、一時間をかけて座禅に臨んだのだが、運転をしていて気づいたことがある。
それは、運転は座禅に似ているということだ。
つまり、「一点に固執してはいけない」ということだ。すべての気配を感じ取り、素直にハンドル操作に集中する。この矛盾する行為こそが「運転」だと思う。
座禅も然り、だからこそ、運転は楽しい。
しかし、楽しい行為には「手間」が付きまとう。
手間が掛かれば掛かるほど、その行為は喜びに満ち溢れるから不思議だ。
「便利」に対し、常々、苦言を呈しているのはこのためだ。
結果だけを求める人生のはかなさよ。

玄侑宗久師の説法はhttp://www.genyu-sokyu.com/yuki/index.htmlにご覧いただきたいが、座禅にいく過程から「生気」を感じる元旦であった。

今年もよろしくお願い申し上げます。

餅つき

この暮れには、座禅会を主催している福聚寺(三春町)で“餅つき”があった。
餅つきといえば、小さいころ裏の納屋で臼と杵でついたお餅は格別に美味しかったのを覚えている。果たして福聚寺のお餅もあの味だった。
十代も半ばになったころから、新し物好きの爺さんが買ってきた“餅つき器”になってしまったが、同じつきたてでも、自分たちでついたお餅は特別だった。
手間をかけた分、美味しさも“格別”になるのではないだろうか?その為か“餅つき器”になってからのお持ちの味はよく覚えていない。

気がついてみれば、餅つきに限らず最近ではものごとに手間をかけなくなった。
便利になったといえばそのとおりだが、手間をかけなくなった分、“特別な日”が少なくなったような気がする。
特別な日(イベント)が少なくなると、刺激がほしくなる。これは少々の買い物などでは解消されないのが問題だ。
子供の持ち物は高価で立派なものが増えたが、子供に手間をかける家が減ってしまった。現代の子供たちは幸せなのだろうか?
私たちの世代の子供時分は少なくとも、“手間”がいっぱいだった。

そんな思いもあって“餅つき”には家族を同伴した。
子供も目を丸くして集まった人たちと餅をこねた。つきあがった餅は彼にとっても“格別”になったに違いない。

もうひとつ、“餅つき”では“いいこと”があった。
当日、福聚寺には脳の成育に障害のある人たちが参加していた。
その中のひとり「ひろし君」はどうもうちの子が気に入ったらしく、お互いに名乗った後で「太郎くん、好きです」と手を差し伸べてきた。
太郎は、何のためらいもなく彼の手を握って照れ笑いをしていた。
その後、ひろし君からお菓子をもらったり、子供同士でしかわからない言葉で話し合った。
素直な気持ちで育った二人を見て、心が洗われる思いだった。

携帯電話

先日、チラッと読んだ旧い雑誌に携帯電話の話しが載っていた。
どうも日本の“電波法”のおかげで、日本の携帯電話は相当後れているらしい。たとえば、携帯電話メーカーの年間販売台数は、世界最大手のノキアの年間10億台に対し、総計でも100分の1程度しかないということだ。
海外ではICチップが内蔵されている方式で、チップの入れ替えだけで新機種に簡単に変更できて、しかも、パソコン並みの能力を持っているという。
当方では料金システムが複雑(何回説明を聞いてもわからない)で、最近でこそソフトバンクが“タダ”攻勢をかけているが、いまだに通話料が異常に高いのは周知の事実だ。以前、車会社がライバルとみなしたのは、その携帯電話だった。月額払いが、携帯より安いというCMはご記憶の方も多いと思う。
今日、CNNのニュースを読んでいたら、米国では個別電話料を携帯電話が上回ったというニュースが載っていたが、それは「携帯電話が年間524ドル(約5万9300円)で固定電話、公衆電話の合計、542ドル(約6万1300円)を上回った」というものだった。日本人には、月額とも取れる金額だが、海外ではかような値段が常識なのだ。
残念ながら、「改革」が叫ばれて久しいが、まだ(企業に対する)保護政策は続いている。

単純に絶対資本主義を認めるわけではないが、「グローバル化」を標榜するなら、部分、部分で、こうしたローカル・ルールが残っているのは、おかしな話だ。
聖域なき改革はどうした?!と言いたい。

一方、早くから世界の競争にさらされている企業、たとえばテレビや車などは、いまだに一頭地を抜いている。
ここにも(業種間の)格差は存在する。
今こそ、携帯電話のように普及した商品でさえ、国の「保護下」にあるという事実を認識しなければいけないのではないだろうか?
既得権の恩恵には、もうウンザリだ。

センス

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田舎に住んでいると、「都会の人たちはセンスが違う」という話がよくでる。
大概はファッション(=流行)の話であるが、それは服装や車などの表層的な話に留まらず、住宅や保険、時には政治的な考え方など生活全般にかかわる内面的な考え方(=ソフト)にも及ぶこともある。
大概は外部との情報量が多い分、圧倒的多数派である都会に軍配が上がることが多いようだが、これには多数派に対する少数派の“憧れ”(あるいは多数派としての驕り)も含まれていると思う。

都会(多数派)が有利なのには「センスは日々触れているものからつくられる」というふうに考えられているからなのだと思う。
センスは、目に付くものに気がついた時から始まるということであろうが、気がつくものが少なければ、少ないなりにまたセンスは生まれる。
日々接していることから研がれる感覚もあれば、接しないことによって生まれるセンスもあるということだ。外部の刺激が少なくてもセンスは生まれるということなのかも知れない。
センスが良いとか悪いとか、センスが「ある」という現実があるわけだから、たとえ、多数派が正義であっても、少数派を責めることはできないし、撲滅することなど不可能だ。
むしろ、少数派あっての「センスの良さ」なのかもしれないのだから、、、。

今週は人権週間である。

フィットするくるま

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白河では、「ホンダ・カーズ」が隣り合わせにある。
元の「ベルノ店」と「クリオ店」だった為に偶然、隣り合わせになった訳ではあるが、同じ白を基調としたグレーの看板が並ぶ様は、結構ヘンだ。
聞くところによると、今年からクリオ店が「アキュラ店」になる予定だったらしいのだが、ホンダが、その出店を延期した為、奇しくも隣同士になってしまったというわけだ。
この二つの店は、元は販売車種が違っていた(当然看板も色が違う)ので、私の知る限りでは、全国でも近くにあるところが多いのだが、いまや、「アキュラ店」の出店を予定していたホンダでは、全店で全車種を扱えるようになったため、同じ店が二店並ぶという「非効率」な事態になってしまったのだ。
「レクサス店」の立ち上がりの不振を観たホンダの営業戦略の混迷が窺える。

そんな中で、ホンダにとって売筋である、モデル・チェンジしたての新型フィットに試乗した。
乗り込んだ新型フィットは、前代のシビックほどの大きさになり、当然、重量も増した。
確かにパッケージなど良くできた車ではあったが、この大きさ、重さが如何ともしがたい。小型車としての軽快感に乏しいのだ(メーカーの狙った線なのかもしれないが)。
もはや、形は酷似しているものの、掴みづらい四方などの「フィット」感がうすまったのが残念だ。

それにしても、昨今の新型車の安易な「大型化」には嘆かわしいものがある。
徐々に肥大化する車には、当然、大きなエンジンや性能のいいブレーキが奢られるわけだが、軽量化すれば、そんな必要もないはずなのに何と愚かなことだろうかと思う。
レクサスLS600を筆頭に、いまだに車業界では成長戦略が止まらない。
メカ的な合理性はともかく、時代にフィットするソフトの理念が見える車はできないものだろうか?

国民益

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どうも国政に近い人たちは国民生活には興味がないらしい。
国政に忙しくて、実情がわからないのだろうか?

今回の原油の高騰にもかかわらず、まだ彼らの間では揮発油税ですら「今までどおり道路特定財源に使用するか」「今後、一般財源として使うか」という議論に終始しているようだ。
今年度末で切れる揮発油税の租税特別措置法(現在は本来の税率が倍額になっている)が継続されれば、所得税、住民税の定率減税の撤廃で疲弊している国民にとっては、かなりのダメージが予想されるのに!だ。
これは「イラク特措法を延期するかどうか」どころではない。この特措法こそ議論にすべきではないか?

こんな有様をみていると、国政に近い人たちが言う「国益」という言葉がますます胡散臭く聞こえてしまう。
今、国政に近い人たちに望むことは、「国益」ではなく「国民益」ではないだろうか。

国会議員

いつものことだが、特に昨今の日本の政治を見ていると、数だけに頼っているようで情けない。
多数決という最後の手法だけで物事が決まるのであれば、同じ国会に選出された少数政党や無所属の議員たちの意味はないことになってしまうし、政党がアタマ数を増やすことだけに地道をあげていたのでは、議論を尽くすという大事な過程は葬られてしまう。

日本の政党政治でおかしなところといえば、議員各自がどんな意見を持っていようが、「党意」として丸められてしまうことだと思う。場合によっては「党意」を超えて個人として譲れないところもあるだろうに、個人よりも「党の一員」としての立場が優先されることが多い。
いつも議論はなく、「調整」(しかも、党内のポジション!)があるのみだ。
比例代表ならいざしらず、個人で選ばれた議員までもが、党としての意見は言えるが、個人の判断がみえないところに不自然さを感じるのは私だけだろうか?
自分の意見が言えないなんて、程度の差こそあれ「北の国」のようでならない。

「ねじれ国会」が問題になるのは、こうした党内の小さな体制翼賛的な風潮がベースにあるからだと思う。
政治がアタマ数(=大きな声)で読めるなんて、幼稚な議会といえないだろうか?
世の中、日々変わっているのだから、マニュフェストどおりに事がすすむとは限らない。
そんな時に力を発揮するのは議員個々の力であり、そんな人を選ぶのも国民の権利ではないか。
大政党の動向ばかりが目に付く昨今であるが、たまには無所属議員の意見も聞いてみたいものだ。